それが「恋」だと、
第三話 / 首に恋した男の話
真っ暗な世界を歩いている夢を見た。
帝人はどこもかしこも真っ暗で寒いその世界のなかで、一人きりで居ることがとても悲しかった。当てもなくさまよう足が、疲れ果ててぎしぎしと痛む。どこかで休憩を取ろうと辺りを見回したとき、微かに耳に届く声に気づいた。
・・・誰かが、泣いてる。
それは押し殺した泣き声のようで、帝人は心をざわつかせる。一体、誰がこの暗闇で泣いているというのだろう。
帝人は声に向かって歩き始めた。
あたりはまだ、ただただ、暗い。
「・・・目が覚めた?」
ぼんやりと目を開けたとき、視界に飛び込んできたのは夕暮れの柔らかな赤だった。帝人はぱちぱちと瞬きをして、のっそりと上半身を起す。どうやら、ソファに寝かされていたらしい。
「・・・臨也さん?」
直前まで一緒に居た人の名前を呼べば、目の前にペットボトルの水を差し出された。
「ごめんね」
そんな言葉とともに。
ごめん?何が?考えてすぐに思い当たった。そうだ自分は、彼に気絶させられたのだ。
「・・・乱暴なことはしないでくださいよ」
恨みがましく睨みつけながらも、帝人は差し出された水を手に取る。臨也の表情は本当にばつが悪そうで、本気で怒る気分にはなれなかった。
「怒ってる?」
「・・・反省してるなら許します」
「反省してる」
帝人はソファに座る自分を見下ろす、折原臨也と言う人間について考える。親友の正臣曰く、歪んでいるその人が、こんなふうに頼りなく弱りきった声を出す場面には、初めて出くわした。それはやっぱり、気絶させられる直前に彼が言ったように、帝人に対してとても優しく誠実であろうとする臨也の心意気の現われのような気がして、だから。
「もう、いいですよ。・・・水、有難うございます」
あっさりと、許してしまうのだ。無理やり連れ去られたというのに。
ほっとしたように臨也が息をつく、その様子を見てから、帝人は周囲に視線を走らせた。明らかに個人の自宅であろうその一室は、白と黒でシンプルに構成されたとてもスタイリッシュな空間で、住人のセンスを伺わせる。
「ここは・・・?」
ペットボトルのふたを開けて喉を潤してから、帝人が尋ねると、話しかけられたことに喜ぶように臨也が顔を綻ばせた。
「俺の自宅だよ。見せたいものがあるって言ったでしょ?」
「ああ・・・そういえば、そうでしたね」
って言うかまだあの時、行かないとは言ってなかったんだけどなあ、と帝人は息をつく。渋ってはたけれど、帝人だってこのぶっちぎりで非日常な臨也の自宅には、確かに興味があったのだ。
大きな窓から降り注ぐ夕暮れの赤が、臨也を包み込むように逆光に染めている。ああ、こうしてみると本当に彼は美しい造詣をしていると思う。まるで悪魔みたいに美しいその目も、完全に計算しつくされたようなバランスの取れた体躯も。
帝人は見蕩れかけた自分をごまかすように、もう一口水を飲んだ。ごくりと喉を鳴らして飲み下し、ようやくソファから立ち上がる。
「なんか、安心しました。流石の臨也さんでも家の中ではコートを脱ぐんですね」
そんなことを言われるとは予想していなかったのか、臨也は一瞬目を丸くして、それから大きく息を吐いた。
「帝人君は俺をなんだと思っているのかなあ。家の中でコートを着る意味がわかんないよね」
「いえ、臨也さんだから着ていたとしても驚きはしませんけど」
「俺だったら驚くよ、驚愕だよ」
軽口を叩いて、臨也が笑う。子供みたいなその笑顔に、すこしドキリと心臓がはねた。
・・・あ、これは、特別扱いだ。
それが明らかに分かる程度には、帝人は臨也を知っていた。臨也がそんな顔を誰にでも無防備にさらすことなど、絶対にないということを。
「えっと、見せたいものって、なんですか」
いたたまれない気持で、いっそ白々しいほどの勢いで話題を逸らす。臨也にとってはそれも予定通りの行動だったのか、これには特に驚いたような様子はなかった。
「ああ、それね。こっちだよ」
おいで、と誘われるまま、帝人は臨也の後についていく。広いリビングからは玄関とダイニングが良く見えて、広々としたシステムキッチンは適度に使い込まれた様子を見せている。出しっぱなしのフライパンや、干されたふきんなどを見ていると、帝人よりよっぽど立派に自炊していそうだ。大きな窓の外にはバルコニーがあり、小さな白いテーブルセットが設置されていた。いくつか、観葉植物の姿もみえる。意外と人間らしい生活をしているんだな、と、帝人は軽く驚く。
窓の反対側に、部屋が二つ。そして玄関の延長上にも一つ。どれがどんな用途の部屋なのかは分からないが、なんとなく、構造上玄関の延長上にある部屋は寝室だろうと帝人は思う。臨也があけたのは、窓の反対側にあった二つの部屋のうちの、奥の方の部屋だった。
「どうぞ」
「あ、はい」
足を踏み入れれば、そこには本やCDなどが乱雑に積まれ、一人がけのソファとその奥に作業用なのか大きなデスクが置かれている。いかにも自室、と言う感じだ。
「臨也さんの部屋ですか?」
問えば、何を言うのと小さく臨也が笑った。
「俺の家に俺以外の誰の部屋があるのさ」
「あ。ですよね・・・」
本当に、何を言っているんだか。はは、と苦笑いを零した帝人に、ずいと突き出されたのは、何か鳥かごほどの大きさのものだった。上から布がかぶさっているので、何なのか分からない。
「・・・どうぞ」
「え?あ、はい」
突き出されたそれを恐る恐る受け取って、帝人は無造作にそれにかけられている布の上から、ひんやりとした冷たい感触を確かめる。そっと布の中身に触れるとガラス容器だろうか、つるつるとした物に触れた。
「え、っと?」
どうすればいいのかと臨也を見上げたなら、臨也は小さく笑って、
「布を取って見たら?きっと面白いと思うよ、君の大好きな非日常の縮図みたいなものだから」
と言う。まっすぐに帝人を見据える目が、やっぱり、どこか帝人に縋る子供のように見えて、慌てて目を逸らした。
非日常の縮図、だなんて。臨也が言うからには。よほどのものなのだろう。
ごくりと唾を飲み込んで、帝人は恐る恐るその布を外そうとした。一旦ガラス容器を抱きかかえるようにして布を外し、それから自分の体から容器を遠ざけてよく見ようと掲げて。
凍りついた。
「・・・っひ!」
一瞬でぞわりと駆け巡る悪寒に、引きつった声をあげてそれを放り出す。そのままずささっと後ずさった帝人の背が壁に当たって、放り投げられたガラス容器はまるで予定調和のように臨也の腕に拾われた。
ドクドクと、嫌な感じに心臓の動きが早くなる。涼しい室内に居ながら、頬を冷や汗が滑っていくのが分かった。知らず、細かく震えていた腕を抱き、帝人は酸素を得ようともがくように口をぱくぱくと開いては閉じ、臨也の腕の中のガラス容器を凝視する。
最低最悪に、グロテスクなその首を。
「あれぇ、おかしいなあ。何をそんなに恐れているの?」
臨也はガラス容器を抱きしめるように抱えたまま、心底不思議そうに首を傾げて見せた。
「非日常の大好きな君なら、もっと喜ぶと思ったのに」