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夏空

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 下まつげの付け根あたりに自分の涙の感触があって、いよいよサンジの感情は収集がつかなくなっていた。グチャグチャだ。おまけに、暑さのせいで何も考えることができない。全部が全部、暴走しているような感じだ。
 ミンミンミンミンミンミンミンミンと蝉が鳴いている。ジリジリジリジリジリジリジリジリと、太陽が首筋を焼いている。
「うー……ゾロの、バカヤロー……死ね……」

 突如立ち止まり俯いて、挙句うめき声を上げ始めたサンジを、ゾロはぎょっとして見つめていた。
 ついさっきまで、鬱陶しいくらいにテンション高く喚いていたくせに。
 その唐突さに、ふとゾロは小学生のころ同じクラスだった吉田君を思い出していた。吉田君はクラス全員から、おまけに担任の先生からすら嫌われていて、からかわれたり無視されたりすると決まって今のサンジみたいに俯いて、苦しげな声を漏らして、教室の隅で蹲ったり、教科書や筆箱を投げたりしていた。ゾロは吉田君をからかったことはなかった、というか話したことすらほとんどなかったのだけれど、たったひとつだけ、記憶に焼きついて離れない思い出がある。
 それは確か夏休みの登校日のできごとだった。今日のように蒸し暑い日だった。
 日に焼けた顔で、どこに行っただとか何をしただとか、これからどこに行く予定だとか、そんな話で盛り上がっているクラスメートたちの中で、吉田君はその日もぽつんとひとり机に座って、爪を噛んでいた。
 そのときゾロは吉田君と席が隣同士だったのだけれど、ちょうど一緒に話していた友達が悪ふざけにこう言ったのだ。
『ゾロ、お前、吉田と遊んでやれよ! かわいそうだろ、こいつ友達いないんだぜ』――
 ゾロは、思わず吉田君をじっと見つめていた。吉田君も、ゾロのことを見つめていた。何も言えずに見つめ合って、視線をそらすこともできずに、かといって、口を開くこともできずに……
『良かったな、吉田! ゾロが遊んでくれるって!』
『なあなあ、何して遊ぶんだよ、吉田ぁ』
『え? なになに?』
『ゾロが、吉田と遊んでやるんだって!』
 なあ、と、クラスメートの手が、ポンとゾロの肩を叩いた。ミンミンミンミンと、蝉が鳴いていた。拭われなかった汗が、こめかみから頬を伝って、顎へと流れ落ちていた。クラスメートたちの声が聞こえる。ざわざわと、笑いながらゾロと吉田君を囲み始める。かごめ、かごめ。そのざわめきが、いつの間にか蝉の声と同じになっている。
『……俺』
 ごくりと、ゾロは唾を飲み込んだ。余計に、喉が引きつるような気がした。
『……俺、駄目だ。剣道、あるから……』
 嘘だった。
 剣道なんて、週に2回、2時間の稽古があるだけなのだ。どう考えたって、夏休み全部が剣道で埋まるなんてこと、あるはずがなかった。
 瞬間、ゾロを襲ったのは、吉田君が手に握った、戦艦大和だった。それはきっと吉田君が工作の宿題で作った代物で、そして、おそらくは、お父さんかお母さんと一緒に、時間をかけて作ったものに違いなかった。戦艦大和は、他のクラスメートたちの机に乗った紙粘土の貯金箱や、折り紙の切り絵なんかより、ずっと立派だったから……。
『ワーッ、吉田がゾロを殴ったー!』
『せんせー、吉田君がゾロ君にひどいことしましたぁ』
『いーけないんだ、いけないんだ、せーんせーに言ってやろ!』
 喧騒がまるでどこか別の世界の音のように聞こえる中で、ゾロは、目を見開いて吉田君を見上げていた。マストの折れた戦艦大和を頭の上に掲げて、吉田君は、ギラギラ奇妙に輝く目でゾロのことをにらみつけていた。
『……ご、』
 ごめん。
 ゾロが苦し紛れにそんなことを言ってみても、吉田君の瞳に宿った色は消えなかった。それどころか、ますます暗い輝きが増していくようにすら思えた。
『先生、先生、吉田君がねえ』
『また、暴れてるんだよー!』
 吉田君は荒々しく教室に入ってきた担任教師に腕を掴まれて、その平均よりもずっと小さな背中はズルズルと遠ざかっていった。その背中にはもはや手が届かなかったし、否、そもそもゾロは手を伸ばさなかった。伸ばせなかった。けれどチラチラと後ろを振り返りながら、最後まで吉田君の目はゾロをにらみ付けていたのである。
『ゾロ君、だいじょうぶー?』
『こわいねー』
『ねー』
 ミンミンミンミンと、蝉が鳴いていた。



 ゾロが眩暈のようなフラッシュバックから醒めると、サンジはまだじっと俯いて足で地面を擦っていた。蘇ったのは、苦い記憶と、それとあのときのどうしようもない罪悪感だ。吉田君とサンジは違うけれど、ゾロにとって目の前で俯いている同級生は、まさにあのとき癇癪を起こした吉田君なのだった。
 そしてやはり、ゾロはあのときと同じく、どうしたらいいのかさっぱりわからないのだ。
「お、おい……」
「……」
 ズリ、ズリ、とサンジの足が干からびた泥まみれのアスファルトを擦っている。ズリ、ズリ、ミンミンミンミンミンミン……
「おいって」
 思わず、駆け寄って肩を叩いた。掌に伝わった感触に、あのとき自分の肩を同じように叩いたクラスメートの手を思い出して、あ、とのけぞる。
 けれどそのときちらりと見えたサンジの瞳は、吉田君のそれとは、まるで真逆のような――それでいて、少しだけ似ている、そんな色をしていたのだった。少なくとも、サンジはゾロをにらみつけてはいなかった。
 どっと汗が吹き出してくるような気がした。それでいて頭はひんやりと冷えている。
「ご、」
 ごめん。
 そう口に出しそうになって、ゾロははっとして口をつぐんだ。サンジは、吉田君ではないのだ。ゾロからしてみたって、サンジと吉田君では大違いなのだ(それも、残酷な話だけれど)。
 田んぼのはるか彼方で、老人が空を見上げていた。さっき見たときと同じ体勢で、まるでカカシのようだ。風は無く、一面に広がる緑色は不動である。

 取り返しのつかない間違いを犯したような気がして、サンジの頭はもうどうしようもないくらいにグチャグチャになっていた。これでまた、ゾロが「あっ、そう」なんて言ったらどうしようと、そんな考えがずっと回り続けている。そんなことになればもう、立ち直れないような気がした。どうしてこう、我慢がきかないのだろう? それでもまだ、どこかでゾロがなんとかしてくれることを期待しているのだ。“なんとか”が、いったい何かもわからないのに。
 変わらず鳴き続けている蝉がむしょうに妬ましかった。あれは、交尾の相手を探しているのだ。本能か欲求か、そのままに鳴き続けているのだ。そんなふうに生きられたらどんなに楽だろうか。そうしたいと思うのに、いつだって中途半端に、尻切れトンボに終わってしまう。サンジは、土からは出てみたものの、途方に暮れて幹にしがみつき、時折かすれた声で小さく鳴いてみるだけの、落ちこぼれの蝉だ。これではただの駄々っ子じゃないか。
 子供のころ、ラジオ体操の帰りに見かけた、アスファルトの上でのた打ち回る蝉のことを思い出した。あれは随分と恐ろしくおぞましい光景だったけれど、サンジは今、あの蝉になりたいと思っている。思い切り鳴いて、それで死ぬなら、いっそそのほうがいい。
 けれど声の出し方がわからなくて、黙りこくっている。
作品名:夏空 作家名:ちよ子