餞
彼の言う通りだ。フランスを好いていたのは青年で、フランスは一方的に熱を上げる彼に応えることはなかった。イギリスがフランスを愛してくれなかったように、フランスも、あの夜青年が望むものを与えはしなかった。
「それで意中の方とは」
口に出したらあまりにも醜態を晒してしまいそうで、フランスは微笑むに留めた。言ってしまえばいい。相手が聞いているのだ、ぶちまければいい。自分の長年の想い人は今頃どちらかの家でよろしくやっているところだと。
「フランシスさん?」
彼はやはり人の機微には疎いらしい。頭の中身のほどは定かではないが、顔だけは愛らしい首をかしげ、フランスの答えを待っている。どうでも説明してやるほかないらしい。
「ほら、お兄さん来る者拒まず去る者追わずだから」
「そうですか。じゃあまだお一人なんですね」
随分と痛いところとついてくるものだ。人がやんわりと言及されることをかわそうとしているというのに。
こういう他人の触れてほしくないサインを見逃しているのか、或いは意図的に無視しているのかは判然としないが、どちらにせよ彼が老獪さとは無縁の若者であることに変わりなかった。
「・・・相変わらず顔ばっかりに栄養がまわって頭には些か足りてないようだな」
ホテルで働いているということはおそらく接客業だろう。こんな調子で大丈夫なのだろうか。
「はあ、よく言われます。すみません、僕って気が利かないですよね・・・」
「自覚あんのかよ! だったらもうちょっとなんとかしろ!」
「小さい頃から、姉たちのお古で着せ替え人形にされてましたしね・・・今更ですよ」
「ちょっとは抵抗しろ! ていうかお前の姉さんなら結構な別嬪なんじゃねえの」
ぽやーっとしたその顔は大人になった今でも十二分に愛らしく、子供の頃はさぞ可愛かっただろう。
「残念ながら、姉たちは父親似で僕一人が母親似です。代わりに姉たちは聡明ですが」
「なんだよそれ・・・・・・」
わざとらしく肩を落として見せるフランスに、青年はやさしげに笑ってみせた。
「でも、頭に養分がまわらなくてよかった。だって顔も頭も十人並みならあの時あなたは見向きもしなかったでしょうから」
「・・・まあ、そうだな」
暗に非難されたような気がして、フランスは目をそらした。
容色をえり好みすることは普通だ。別段悪いことではないはずなのに、愚かゆえに穢れを知らない無垢な瞳を見ているとなんだか自分がひどく汚れているように思えるのだった。
それと同時にこの男がひどく羨ましくなった。
少しばかり頭の足りないこの男は駆け引きを知らない。利害や損得で物事を考えない。だからこそ正直でいられる。その愚かさは、長く生きてきたフランスにとっては得がたく感じられた。自分だけではなく、フランスが長く憎み愛してきたあの小憎らしい男もまたそうだった。
うまく他人との距離をとれないイギリスが、唯一フランスに対して殴る蹴るでコミュニケーションをとっていたのだ。自分たちはそれでいい、決して彼は他人と馴れ合うことのないのだから。そう思って来たけれど、彼はいつの間にか殴る蹴る以外の他人との関わり方を覚えていた。
あの手のつけようのない、どうしようもなく可愛くないところがイギリスの可愛いところだと思っていた。今でもそう思うが、イギリス本人はきっとそういう生き方を望まなかったのだろう。
誰にも懐かないと思っていたのに、アメリカは彼の心をあまりにも容易くその手に入れた。アメリカが一体何をしたか。アメリカが彼に与えたものは、形あるものではない。ただの、それでもたったひとつしかない、アメリカの愛だった。アメリカはたったひとつ自分が持ちうる心を引き換えに、イギリスの心を手に入れたのだった。
「・・・特定の誰かと生きるなんて無理な奴だと思ってたんだけどな。まああいつも年貢の納め時ってことさ」
イギリスとアメリカは指輪の交換を済ませ、互いの国に二人で住むための家を建てた。そしてつい先日、血のつながりこそないもののイギリスの孫と言っていい子供が産まれた。
人間の夫婦とは立場こそ違えど、二人は同じ方向を見て、同じものを食べて、同じ思い出を共有しようとしている。彼らは二人の意志で、間違いなく家族になろうとしている。
「あいつが幸せにやってる。それだけが今の俺の幸いだ」
なんてままごとだ。
揃いの指輪を買った時は、そう思った。人間でもない二人が添い遂げるなどありえない。二人が国家である以上、己の国民と国益以上に大切なものなどないのだ。当然利害がぶつかることも意見が食い違うことも出てくる。アメリカを失って荒んだイギリスの目を見ると哀れに思う心は持っていても、あのアメリカと続くはずがないとフランスはどこかで冷静に考えていた。
だが、あの二人はあれから十年続いている。クリストファーという子供を通じて、あの二人は新しい絆で結ばれている。
「結婚、なさったんですね」
「事実婚てやつだがな」
彼らは籍を入れていないが、指輪の交換にマイホームの購入とくれば、世間一般的には結婚を意味する。
永遠に続くものなどありはしない。人が百年も生きられないように、いつか毀れる時が来る。それでも、フランスは愛しく思う。そういう心のあり方を。一人ではいられない人の弱さを。
青年は穢れを知らない子供の目でフランスを見つめた。
「やっぱりあなたは僕とつきあうべきだと思います」
「そりゃまた大した自信だが、根拠のほどは?」
「あなたは愛は注ぐものなんて言うけれど、本当は愛したいんじゃない。愛されたい人なんです。あなたはかつて愛した彼を愛するのではなく本当は愛されたかった。違いますか?」
舌っ足らずな彼が、珍しく饒舌だった。その指摘があながち間違いではないだけに、まっこうから否定することができない。
「・・・言ってくれるじゃないの」
「僕ならあなたを愛してあげられます」
「だが俺はお前を愛していない」
「今はそうかもしれません。でも、あなたは遠い過去に縋って生きられるほどの思い出を持っていない。今日生きるために、目の前で愛を差し出されれば受け取らずにはいられないほどに飢えている。そうでしょう?」
ああ、そうだ。この男の言う通り。自分はあの隣人に愛されたかった。
傲慢でプライドばかり高い、あの男に愛されたかった。
愛とは美しいもの。
相手を愛し、愛されることはとても美しいことだ。
本当はイギリスに愛されたかった。
アメリカのように、愛されてみたかった。
だが、彼の心は未来永劫手に入らないだろう。今まで彼が振り向いてくれることがなかったように、これから先もきっとそうだという確信めいた予感があった。
仮に隣国として仲良くなれたところで、彼にはアメリカがいる。決して彼の心は手に入らない。彼の愛は大きい代わりに一つしかなくて、その特等席には常にアメリカが座っているのだ。椅子取りゲームにすらならない。何しろイギリスはゲームを始める気もないし、アメリカは椅子から立ち上がろうともしないのだ。フランスはただ呆然とそれを見ていることしかできなかった。
けれどそれを悟られるのは悔しくて、言い訳しなければ到底耐えられなかった。