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代用煙草と白昼夢。

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 怖い目になって膝を抱えてうつむく日本に、ギリシャはどうも地雷を踏んだらしいと気がついた。戦争相手の成功談はよろしくない。
「……じゃあこんな話は?……1991年ソビエト連邦が崩壊し、バルト三国をはじめ10数国が共産主義の圧制から解放された」
 ギリシャの言葉を聞き終わるか終わらないかのタイミングで日本はガッツポーズを作って満面の笑みを浮かべた。
「おおおおおお! やった! やった! 人類の偉大なる一歩だ!!!……ところであの人はそのまま生きてるんですか?」
「……残念ながら」
 ギリシャがそう答えると日本は舌打ちをしてぶつぶつ言い始めた。
 もう少し話題を選ぶ必要があるようだ。あまり国の浮沈には関係ないようなものにしなくては。
「……あと、この戦争が終わってすぐオリンピック再開したな。2004年はうちの国で108年ぶりに開催した」
 日本がゆっくりと顔を上げる。そしてこわごわ口を開いた。
「……。私は出てるんですか?」
「ネタバレはいらないんじゃなかったの?」
「出てるんですか。「日本」として?」
「……うん。柔道のメダルが少なかったってぼやいてたよ」
 それを聞くと日本は少し長めの深呼吸をして目を閉じた。若干、間を置いて話を続ける。
「2008年には中国の北京での開催が決まってる……日本の大阪と開催地を争って向こうが勝った」
「中国……」
 日本がうろんな顔になる。何か、考えあぐねているようだった。
「そう、中華人民共和国。この時代だと、まだ中華民国……だったか」
「そうですか。で、その大会には私も出られるんですか」
「もちろん。……欠席する理由がなければ」
 日本は抱えていた膝を伸ばし、縁側の外に足を垂らすと空を見上げてもう一つ深呼吸をした。その横顔が、一瞬ひどく老け込んで見えた。

「2007年の世界はどんな風になってるんでしょうか。今より、良くなってますか?」
「……何を以て善し、とするかに因るかな」さて困った種類の質問だ。なんと答えよう。

「この時代ほど剣呑ではないけど、平和とはほど遠い。大国間の大規模な戦争は起きていないものの、小国の支配権を巡っての代理戦争や資源紛争で今も地図の上から国が消えたり増えたりしている。民族間の不毛な闘争や宗教観の対立による武力衝突に加え、相変わらず食料問題や環境破壊の脅威に晒されている。科学技術は少々進歩したけど不老不死や空飛ぶ車は夢物語。表向きには人種平等ってことになっているけど、実際は相変わらず白人が世界の富の大半を支配しており、一部の裕福な国を除いて大半の有色人種は差別と搾取の対象……こんな所だな」
 ギリシャが滔々と並べ立てる言葉に日本の顔が曇り始める。やはり予想の範囲内でしか世の中は変わらなかったらしい。
「……何にも変わらないじゃないですか」
「でも、1945年よりずっとマシ。間違いなく。……そこは期待していい」
「じゃあ最後にもう一つ。2007年の私は、幸せそうにしていますか?」またしても答えにくい質問だ。だんだん面倒くさくなってきた。
「さあ?」すげない返事を食らって日本は気色ばんだ。なんだその態度は。
「……日本がどうかは知らない。いつも難しい顔してるしな。あ、そうそう。俺と付き合ってるよ」さりげなく真実を述べると日本は激昂した。
「はあ? 何を馬鹿みたいなこと言ってるんですか、国同士で。しかも男同士で。気持ち悪いこと言わないでください」
「……いや本当だし」
「本当だし、じゃないですよ。なんで私があなたとつきあってるんですか。どこに接点があったんですか。国だってむちゃくちゃ離れてるし私はあなたの名前だってよく覚えちゃいないんですよ! 嘘つかないでください! この無礼者!」
「ん。……暇を持て余した神々の戯れの結果、そうなったんだ。運命だと思って諦めてくれ」
「嘘です! 嘘です!!」
 怒りに震える手で銃を探そうとした日本の先回りをして銃を奪い取るとギリシャはそれを塀の外に放り投げた。ガラスの割れる音と誰かの怒鳴り声が聞こえる。気にしない気にしない。
「武器よさらば。……さあ誤解と時を越えて愛し合おう」
 日本はまだぎゃあぎゃあ叫んでいたがやがて冷静さを取り戻す。
 表情から怒りの色が消えたかと思うと、突然軍服の前釦を外し始めた。
 そして内側の身を晒すと──「前なら……いえ、未来の私ならともかく、今のこんな私とでもどうこうしたいですか?」
 痩せこけて見る影もない体。肩から胸部にかけて堅く巻かれた包帯の内側から染み出した血膿が、腐敗臭を放ちながら赤黒く固まっていた。皮膚の露出した部分は縫われたばかりの生傷と共に変色した打撲傷の痕にくまなく覆われている。普通の人間なら立つこともおぼつかないだろう。
 人間の施す手当など所詮無意味だ。この傷には癒す術がない。誰もが忘れてしまうまでは。消えるのを待つしかない傷。
「同情を受ける謂われはありませんよ。どれもこれも、自ら為した事の結果にすぎませんから」
 諦めたように笑う、その表情はよく知っている。
「皆に追いつきたくて、対面を保ちたくて、必死になった顛末がこれです。何ともやるせない話ですが」
 ギリシャはしばらくのあいだ呆けたような顔で日本を見つめていた。これは本当に夢なのか。だとしたら、どうしてこんなに──苦しいんだ。
 何か言おうと思った口は動かなかった。彼が大戦中に身に受けた傷の話は知っていたが、お互いの昔の話はしないのが二人のルールでもあった。けして触れられたくない過去を持つ者同士の、最低限の気遣いだ。
「私は、私は──これからも今のままの私でいられるのでしょうか。貴方の愛した私は、今の私と同じ「日本」でしょうか?」

 いつの間にか、日本はくつろげていた襟を締め、元のしかめつらしい顔に戻っていた。
「誠にすいません、お見苦しいものをお目にかけました」
 力無く笑う日本の頬に、素早く掠めるように口付ける。殴られるのを承知でした戯れにも日本はもう怒らなかった。
「直るまで……後、六十年ぐらい待つかな。待つのは得意」
「本当に、物好きな方ですね」
 いつしか、お互いの手を重ねていた。隙間なく重なっているようでそこには六十年もの距離があるのに、温かかった。過去の日本との、幻でしかない逢瀬。だがギリシャには妙な確信があった。あの傷だけは現実に存在したものだと。何の理由でかそれを夢の中で知ることになった。否、知りたいとギリシャ自身が望んだのかも知れない。
 昔、イタリアが妙な事を言い出した事があった。
 うんと昔に、夢の中で子供の頃の日本と何度も遊んだ事がある、と。
 それは日本と出会うずっと前の事だったという。だから、初対面の時も最初から友人のような気がしていたと──そもそも我々の時間の流れはヒトの過ごすそれと違ってずっと自由なはずだと、彼にしては珍しく分別臭い顔で話してくれた。

 だとしたらこの夢も。
 この重なった手のように、出会ってすらいなかった時代の記憶をつなげた、何かの奇跡かも知れない。
 悪くない。トルコに自慢してやろう。

 どれぐらい時間が経っただろうか。日本がやっと口を開いた。
作品名:代用煙草と白昼夢。 作家名:火多塔子