奇跡みたいだ、なんて
「正臣。手、痛いってば。ねえ、」
放課後の静まった校舎、その廊下に、小刻みな足音が反響しては消える。グラウンドからは、まだ運動部の掛け声やホイッスルの音が聞こえてきていた。
何度言っても、正臣は聞く耳を持ってくれず歩き続ける。何一つ状況を飲み込めずにいる帝人は、歩幅を大きくして転ばないように正臣を追うしかなかった。
「―――…お前さ、滝口と」
「え?ああ、」
前を向いたまま、歩き続けながら発せられた正臣の言葉に、焼きついた、コーヒー色の瞳がフラッシュバックする。頬に熱が集まる。思わず俯いた。
「………っ、」
亮は、何を言いかけた?
「っわ、」
突然、正臣が足を止めた。その背中にぶつかりそうになって、帝人は咄嗟に足に力を込める。上履きが床と擦れてキュッと鳴る。
「正臣?」
「帝人、」
振り向かないまま帝人の名前を呼んだ声は、いつもと明らかに違っていた。
帝人はそれに気付いて、もう一度正臣の名前を呼ぼうとする。
「俺はさ、帝人」
けれどそれを遮るように、それより早く言って振り返った、正臣の表情は、
「…正臣………?」
ひどく歪んで、今にも泣き出しそうで。
掴まれたままだった腕を再び引かれる。正臣が足を向けた場所は、一階の階段脇だった。物が詰め込まれた重そうなダンボールや余った机が積み上げられ埃を被っているそこの壁に、背中を押し付けられる。その衝撃と舞い上がった埃に、帝人はごほりと噎せた。掴まれていた右手首も顔の横で縫い留められて、自由に出来るのは左手だけになる。
けれど、その左手を帝人は動かせない。正臣の瞳はゆらゆらと揺れながら、それでもこちらを見つめている。さっきと、亮に何かを言われかけたときと同じように、指先すら動かせなかった。
静かに正臣の右手が壁に衝かれる。帝人はそれを、視界の端でただ見ていた。
「―――帝人、」
掠れた声で名前を呼ばれて、ぞくりと背中が粟立つ。
逃げられない。
そう、悟った。目の前の幼馴染は決して、自分を逃がしはしない、逃がしてはくれないと。
「正、」
呼ぼうとした言葉は、途切れた。帝人はすぐ近くで見た、灯ったゆらめく炎を露わにする、見たことの無い正臣の瞳に、吸い込まれてしまうような気がした。
「――――、」
目の前にあったはずの正臣の顔が、消えていた。違う、すぐ近くにありすぎて、見えなくなっていた。
ぱちり、一度瞬きをして、ようやく焦点が合う。閉じられた正臣の瞼、それを縁取る、昔の髪と同じ、濃い色の睫毛。
(………長い、)
自分の置かれた状況も忘れて、帝人はぼんやりと思った。
触れ合わせただけのキスの最中、帝人は唯一自由である左手を持ち上げ、正臣の肩に掛ける。そのまま思い切り正臣の身体を突き飛ばすことも、帝人には出来たはずだった。けれど帝人は僅かに指先に力を込めただけで、それは正臣のブレザーに少し皺を寄せただけだった。
「っ……正、臣、」
静かにゆっくりと離れた唇、再び覗いた正臣の瞳の中の炎はすっかり消えてなくなっていた。後に残された揺れは不安なのか恐怖なのか、それとも違う何なのか、帝人にはわからない。
ぽろり、帝人の唇から言葉が零れる。
「何、してるの?」
それは純粋な疑問だった。突然の口付けに、驚き焦ることも、怒り激昂することもせず、帝人はただ純粋に問いかけた。
どうしてこんなことを。どうして、そんな表情を。
「……わかんねえ」
ねえ、なんで。
「俺にもわかんねえよ、帝人」
どうしたらいいのか。どう、したいのか。
正臣の表情が、さらに歪む。薄茶色の瞳はゆらゆらと揺れて、ふっと伏せられてしまった。長い前髪が、それを隠す。
「ぁ………、」
金縛りが解けたみたいに、全身の感覚が戻ってくる。
帝人は自分でもよくわからないままに正臣の肩からそろりと左手を持ち上げ、首筋を辿り、頬へと伸ばした。
正臣の頬に指先が触れた瞬間、正臣の身体がぴくりと動く。けれど正臣はそのままで、帝人の手を拒まなかった。
作品名:奇跡みたいだ、なんて 作家名:イチカ