口説く。
2.菊がルートを
その日、珍しくルート宅の人口はわずか二名だった。
兄のギルベルトは出張。いつも、いつの間にか居るフェリも今日は国内行事で不在。
しつけの良い犬たちはとっくに自分たちの寝床へ引っ込み、居間にいるのは家主と客人の菊の二人だけだった。
暖炉の前に椅子を寄せ、酒を呑みながら話を弾ませる。
とはいえ、ここにフェリがいたら「あんなの、会話じゃなくて議論だよ~」と嘆くこと間違いなしの堅い話が延々と続いているのだが。
丁度いい機会だから。と、欧州の習慣や思想について菊があれこれ問い、ルートが答えるという形式は菊にとって心地よかった。逆にルートからも、積極的に質問が飛び出す。知識をマニュアル的に積み重ねる性格の彼にとっても、実りある時間だった。
「……おや、もうワインがありませんね」
菊に言われて気がつくと、彼らの周りには酒瓶の林が出来上がっていた。
居間に移動してからの飲み物は、もっぱら白ワインだった。喋っていると喉が渇くので、いつもよりいいペースでコルクを抜いた気はしていたのだが。
いくらなんでもペースが速すぎる。
「今日は、この辺にしておくか」
そう言うと、菊がしゃっきり立ち上がって答えた。
「それは困ります。蒸留酒、いただいてもよろしいですか?」
「サクランボ酒があるが……どうした? 酒は無理に呑むものじゃないぞ」
答えず菊は、酒棚から「kirschwasser」と書かれた瓶を取り出す。
客人に酒をケチる気がないルートは、ため息をつきつつリキュールグラスを取り出す。菊に手渡そうと振り返ると、乱暴な手つきでワイングラスにサクランボ酒を注ぐ友人の姿があった。
「おい! どうしたんだ一体」
普段と違う事を目の前でされたら、気になるのは当然だ。瓶を持つ菊の手を押さえつけると、彼の動きが止まる。
「すいません。まだ、酔えないんです」
「無茶言うな! お前、うちのケラーを空にする気か?」
彼は見かけによらず酒豪だ。だが、ルートの懸念はそんなことではなかった。
「事情によっては、酒くらいいくらでも呑ませるが。お前なんか変だぞ」
そう、ルートの知る菊は、こんなむちゃな呑み方をする男ではない。
「何かあったのなら話してくれ。こんなやり方、俺は好きじゃない」
言われて菊が視線を上げる。上気してほんのり染まった頬とうるんだ瞳で、ルートを見つめた。
すでに酔っているように見えるが……。と、いぶかしんでいると。
酒瓶から手を離した菊が、彼を止めていたルートの手を握り返してきた。
「酔いに紛れて言いたいことがあったものですから」
その言葉にムッとするルート。
「俺はそんなごまかしが嫌いだ。言いたいことがあるなら素面で告げてくれ。それ以外は却下だ」
「貴方ならそう言うだろうと思っていましたよ」
だからこそごまかしたかったのですが、仕方ありませんね。と、呟いた菊が、ルートに綺麗な微笑みを見せた。
「では、覚悟して聞いてくださいね」
一瞬、何の告発もしくは懺悔を聞かされるのかとルートは緊張する。
「私は、貴方が……好きなんです」
居間の時間が止まった。
「え?」
さっき銀行強盗してきました、と白状される方がはるかにマシだとルートはぼんやり思う。
「あいにく私は酔っていません。貴方の耳も壊れていません。ついでに言うと、寝言戯言でもありません。これでも、死ぬほど勇気を振り絞って告白したんです。
貴方まさか、無下に扱ったりしませんよね?」
ルートの手を握り締め、うつむいた菊の肩が震えている。いっそこのまま爆笑して、「冗談です」と言ってくれないものか。と、ルートは思わず天に祈ってしまった。
(この際贅沢は言わない。ブリタニアエンジェルでいいから俺を助けてくれ)
決死の祈りは天に通じなかったらしい。
我に返ると、菊が彼の隣に座り、じっと顔を見上げていた。
「ルッツ」
かすれ声で名を呼ばれ、ルートは飛び上がりそうになる。恐怖心に果てしなく似て非なる今の感情をもてあまして、情けない話だがどこかに逃走したい気分だった。
「俺は……」
言いかけの言葉をさえぎって、菊の声が被さる。
「ところで貴方、チェリーだという噂は本当ですか?」
話がどこへ転がるか予想もつかず、ルートは本気で身を引いた。その反応を見て、菊が微笑む。
「実は、私もなんです」
「齢二千年以上もの間、何やってたんだお前!」
素に返って叫ぶと、菊が安堵したように溜息をつく。
「正気に戻って、よかった。お願いですから、少し肩の力を抜いてください。今すぐどうこうという話じゃ、ありませんから」
「いいのか?」
「はい。私が気持ちを伝えたかっただけですし。押し付けるつもりもありません」
でも、想いが胸からあふれるって、本当だったんですね。と、菊が自分の胸に両手をあてて、しみじみと呟く。
「抑えられなくて、申し訳ありません」
ルートはしばらく目を閉じて考え込んでいたが、突然サクランボ酒の瓶を手に取ると、一気にラッパ飲みした。サクランボ酒はアルコール度数40。普通はむせかえる。喉が詰まって、とてもこんな芸当はできない。
だがルートは酒棚を開けると、蒸留酒を次々テーブルに移動し始めた。
「貴方、何をしているのですか」
菊が問うと、ルートは赤面した顔をそらしつつこんなことを言った。
「俺は今から酔う。酔っ払って今夜のことは覚えていない! そういうことで、いいな?」
「……それが貴方の結論ですが」
「すまない。だが今の俺には無理だ。お前のことは嫌いじゃないが、どうしていいか判らないんだ」
菊にとっては想定内の反応だった。だから酒で流してしまうつもりだったので、それは別にかまわないのだが。
まさかここまで速やかに全面降伏されるとは思っていなかった。
悩むとか他にも色々、反応してくれてもいいのに。と菊は少し面白くない。
「わかりました。明日の朝には忘れてください」
そう言うと、立ったままのルートを手招きする。
「でも、そういうことなら。今夜は私の胸の内を、とことん聞いてくださいますよね?」
微笑みつつ、自分の隣の場所をぽんぽんと叩いて「座りなさい」と要求。
返事の代わりに、ルートは手にしたブランデーを一気呑みした。
翌日。ルートがこの出来事を忘れることができたのか、それは神のみぞ知る。
終