空を泳ぐ
「ある日ぱったりと電報が届かなくなった。俺は電報を打つ余裕がないほど戦争が激化しているのか、または撃ち落とされたんだと、自分自身少しも信じちゃいない仮説を立てた。ニュース番組を観る限り現場はそれほど苦戦しているような感じでもなかったし、あいつが簡単に撃ち落とされるとは思えなかった」
アーサーは温さを通り越し冷え切った紅茶に手を延ばした。そしてその先の話ごと先延ばしにしようとしている。
フランシスはアーサーに優しかったのだろう。彼を思い返す時のアーサーの瞳はいつも柔らかかったから。
だが今目の前にいるのは優しくないアルフレッドだ。アーサーを甘やかすよりも先に、まずは自分を優先する子供だ。
一度アーサーの策に乗ったのだから、アルフレッドはそこから降りるつもりもなかった。自分が納得するまでアーサーから話を聞き出すつもりだった。
「ねえ、アーサー。俺が望んでいるのは、君達の甘酸っぱい恋の話じゃないんだ」
少し語気を強めてアルフレッドが言えば、伏せられていた深緑がぱちりと開いた。
真っすぐにアルフレッドを見据えると、今度はまるで猫のようにアーサーは笑ってみせた。
「甘酸っぱい恋! ははっ、これがそんな小綺麗な青春映画なもんか。アル、俺が一番最初に何と言ったか覚えているか?」
「つまらない午後にぴったりの、とある飛空士の話」
「そうだ、これはそんな心弾む話じゃないんだよ」
もう一度念を押すようにアーサーが言った。
アルフレッドは勿論心など弾まなかったし、だからといってつまらない話かと言われればそうではないと首を横に振る。
これがつまらない年寄りの懐古ならどれだけ良かっただろう。
アルフレッドにしてみれば今のアーサーの話はただ不愉快なものでしかない。
「とある飛空士は死んじゃいないし、置いてけぼりの幼なじみはそいつだけを愛して操立てした訳でもない。ハッピーエンドもバッドエンドもスクリーンの向こう側だ。現実なんてくそったれたふざけた話しかないんだよ」
アルフレッドはアーサーがここまで自虐に走るのを見たことがなかった。
歪んだ唇は僅かに震えていて、深緑は酷く濁っている。
アーサーの望むままに彼の背をトンと過去へ押しやったのはアルフレッドだ。そのことに何の責任も感じない訳ではない。小さな痛みが胸で生まれ、少し眉間に皺を寄せた。
「電報が来なくなった時と同じように、ある日突然、ぱったりと止んでいた電報が届いた。差出人は見知らぬ奴だった。いや、知らない訳じゃなかった。話だけは聞いていた、異国の留学生──菊からだった」
電報は打った本人からしてみれば簡単な、それでもアーサーからしてみたら礼儀正しすぎるほどの挨拶から始まり、フランシスがとてもではないが電報を打てる状態ではないこと、フランシスが入院していること、アーサーを複座に乗せて空を飛べなかったことをフランシスがとても悔いているということ、アーサーがよければフランシスに会ってやって欲しいということが流れるような美しい言葉で綴られていた。
異国の人間が滑らかに美しくこんな文章を書くのかと、受け取ったアーサーは感動した。
電報の内容よりもそれを伝える言葉の方に意識が強く向いていた。よく考えるまでもなく、電報に書いてあることを深く考えたくなかったのだ。
だからアーサーの目は美しい言葉の羅列をなぞるだけで、読み取ること自体を拒否していた。
「あくまで電報を読み流すだけに留めて、俺は菊に返信した。あの時は自国の言葉で打つのに、わざわざ辞書まで引いて相手に失礼のないようにって必死になったよ」
「…………」
「フランシスに会う前に、まずは菊と会って話がしたい。それからフランシスに会うかどうか決める。たったこれだけのことを打つのに、用件より挨拶の方が長かったんだ。笑えるだろ?」
「いいや、全く」
アーサーは今の話のどこで笑えというのだろう。アルフレッドの表情はますます険しくなる一方だ。
まさかアーサーはアルフレッドが笑うことを期待していたのだろうか。
予想していなかった反応を返され居心地が悪くなったらしいアーサーは、咳払い一つで話を仕切り直した。
(090601)