空を泳ぐ
実際に菊に会ったアーサーは、彼の容姿に驚いた。
異国の、極東の人間だとフランシスから話は聞いていたが、実際自分達とは違う色の人間を見たのは初めてだった。
アーサーも背丈はあるものの肉付きが薄いため、体格に恵まれているとは言い難い。だが、菊はそれより華奢だった。
背丈はアーサーと大して変わらないであろうその体は、人種の違いが骨格にも現れていた。
見慣れない黒髪の頭を深々と下げて、菊はアーサーの予想通り低く丁寧な声で空気を震わせた。
「初めまして、本田菊と申します。突然のお手紙だったにも関わらず、こうやってお越し頂き本当に有難うございます」
「いや……こちらこそ礼を言わなくちゃならない。アーサー・カークランドだ」
すっとアーサーが手を差し延べてもすぐに反応は返ってこない。
どうしたのだろうと首を傾げそうになったところで、ああとアーサーは思い至った。
彼の国と自分の国では文化がまるきり違うと聞く。もしかしたらあちらの国では握手という行為がないのではないだろうか。
思い至ったものの、すると今度はこの差し出した手をどうすべきかと困惑する。
引っ込めるには決まりが悪いし、だからといってこのまま差し出したままというのもおかしな話だ。
しかしアーサーの困惑はすぐに解消した。
アーサーがどう対処すべきか悩んでいる間に、同じように菊も悩んでいたらしい。
悩んでいたという表現はあまり適切ではないかもしれない。
菊ははっとしたような顔になると、すぐにアーサーの手を握り返してきた。
差し出された手がどういった意味であるか一瞬では思い付かなかったのだろう。
それはアーサーの予想にも含まれていたことだったから、彼は別段気分を悪くすることもなかった。
それどころか共に向けられた笑顔にかえって印象が良くなったくらいだ。
一瞬恐ろしいとすら思った真っ黒な瞳が、光を滲ませ笑みに変わる様は見ていてはっとするものがあった。一種の宝石がそこにはあった。
行きましょう、と挨拶もほどほどに二人は移動した。呼び出した菊の案内で、フランシスが入院しているという病院近くの喫茶店へ。
アーサーは病院に直接向かわないことを不思議に感じた。
二人が入った喫茶店からはフランシスが入院しているという病院が見える。
小高い丘の上にある病院は、ひょっとしたらこの街のどこからでも見えるのではないだろうか。
この街の建物は全体的に低く、まるきり平地という訳ではないが病院がある丘以外に目につく高さのものはない。すると視線は自然にぽっかりと浮いた白い病院にいってしまう。
アーサーが窓の外を見ているうちに、手慣れた様子で菊が店員に注文を言っていた。
アーサーも注文を聞かれ、メニューをちらと横目で確認するだけに留め「アールグレイを」と短く告げる。
「ここはお茶の種類が豊富ですし、どれも美味しくて私もよく来るんです。異国にいながら祖国の味を味わえるなんて、少し得した気分がしますでしょう?」
ふふっ、と穏やかに笑う菊にアーサーは気の利いた返事が返せない。
先程はさらりと読み流してしまったメニュー表をもう一度開く。別に追加で注文するものがあった訳ではない。ただどんな種類の茶葉があるのかと気になっただけだ。
自分の言葉にたいした言葉が返ってこなかったにも関わらず、菊はそれほど気にしていないようだった。
メニューをめくる際にちらと彼を見ても、真っ黒な瞳は穏やかに陽光に溶けている。
一瞬目が合ったような気がして、アーサーは急いで、それでも不自然にならないように目を逸らした。上手くいったかどうかは自信がない。
アーサーは育った土地柄、コーヒーよりも紅茶の方が好きだ。茶葉ならば大概上手く淹れられると自負している。
メニューにはアーサーが普段飲まないようなティーセットがずらりと載っていた。恐らく見慣れない名前が菊の国のものなのだろう。
そういえば、とメニューをパタンと閉じてアーサーは思った。
アーサーの作った料理は中々口にしなかったくせに、フランシスはアーサーの淹れた紅茶だけはよく飲んでいた。アーサーが作った菓子類はテーブルに載せることを許さず、代わりにフランシス作のものが載る。
フランシスの作るものは料理でも菓子でも何でも美味かったが、不満がなかったかと言われれば嘘になる。アーサーだって自分が頑張って作ったものを食べて欲しかったのだ。
自分がここまで料理が出来なくなったのはフランシスが自分を甘やかしたからではないかと思う。
思考が一巡したところで深く優しい香りが鼻孔を擽った。
店員は注文した品をテーブルに載せると、軽く頭を下げてすぐに去ってしまった。
「――フランシスさんのお話でしたね」
グリーンティーを一口飲んで菊はそう口を開いた。
アーサーはアールグレイに口を付けていない。
「フランシスさんからアーサーさんは紅茶が好きだとお伺いしていたので、このお店を選んだんです」
少し照れ臭そうに話す菊に、アーサーはやはりなと納得した。
アーサーがフランシスから菊の話を聞いていたように、菊もフランシスからアーサーの話を聞いていたのだろう。そうでなければ紅茶が美味しい店をわざわざ選ぶとは思えない。
「フランシスが入院していると書いてあったが」
「はい」
「どこか怪我をしたとか」
「いいえ」
「ならどこか悪くなったとか……あいつ、薬飲んでたし」
「……そうですね、悪くなった。これが一番しっくりくるかもしれません」
何とも曖昧な態度だった。表立って苛立ちを表すほどアーサーは幼くはないし、初対面の人間に対しても沸点は低くない。しかしそれでもいい気分ではない。
アーサーの中で菊に対する評価が下がるのも仕方のないことだった。
口にせずともその分アーサーの感情は瞳に顕著に表れていた。自然と深緑の瞳が訝しげな色に染まる。
アーサーは会って間もないが、菊は己の変化を見過ごすような人間ではないだろうと分かっていた。
穏やかに静観しているようで、その実誰よりも物事を見極めようとしている。漆黒の瞳は何を考えているのか表情が読めない。それだけに余計不気味だった。
「フランシスさんが薬を服用していたのはご存知ですね?」
「ああ」
「では、それが何であるかは」
「……知らない。というかあいつ本人も分かっていないみたいだった。『サプリメントみたいなものだ』としか」
アーサーがその時のことを思い出すように言うと、なぜか菊は不愉快そうな顔をした。
アーサーがそう感じたのであって菊自身は何一つ表情を変えていない。ただ少し唇を噛み、漆黒の瞳に昏い光が落ちたような気がしたのだ。
まさか自分の回想が相手を不愉快にさせたのだろうか。だとしたら訳が分からない。
この手の話をするのに回想は必要なものだろう。話を振ったのは菊なのだから、ある程度はアーサーがどんな返事を返すのか予想出来たはずだ。
ほんの一瞬だけ空いた間。その間に菊は伺うとも見るともとれる微妙な視線をアーサーに寄越した。
漆黒の視線と深緑の視線が交錯したのは一瞬とも言えないような短い間。