空を泳ぐ
視線が合ったような、合わないような、そんな居心地の悪さにアーサーは身じろぎした。
アーサーの少し強張った顔を見て、菊は相手を安心させるような笑みを浮かべた。
その手の笑みは逆に安心させたい相手の心を凝り固めてしまうというのに。菊がそれを知らないはずがない。
いくら心を落ち着かせ菊の望む通りの対応をしたくても、アーサーの猜疑心は解れてくれなかった。
「ああ、すみません。その――フランシスさんらしいというか、軍部らしいというか――アーサーさんが悪い訳ではないんです」
誤魔化すように菊は笑うが、笑みを向けられたアーサーは何一つ笑えない。
こちらの考えていたことが読まれ、その上で謝罪された。アーサーは背筋が薄ら寒くなった。
「何を支給され何を飲まされていたか、フランシスさん自身も分かっていなかったのは本当です。私もつい最近まで知りませんでしたから。服用させる本人にすらその中身を明かさないのは……軍の悪癖というべきでしょうか」
菊の言葉はフランシスに対しての言は凪いだ水面のように静かだったにも関わらず、軍に関して言及するその時に水面は荒れた。
苦々しいものを吐き捨てるような顔をした菊を見て、ようやくアーサーは目の前の読めない男を朧げながら掴んだような気がした。
菊は感情を押し殺せる人間なのだと思っていたが、そうでもないらしい。
あるいはその軍の悪癖が菊にとっては押し殺せないほど許せないものなのか。
秘密主義というものは何であれ気分のいいものではない。アーサーは何の説明も受けていないので、軍が隠した薬の中身が何であるか予想も出来ない。
しかしそれでも、服用する側にすら説明をしない軍の体質に嫌悪は覚える。幼なじみがその当事者ならば尚更だった。
自分が表情を歪めていることをどう思ったのか、菊は軽く咳払いして姿勢を正した。
その表情は元の静かな水面に戻っていて、アーサーは彼の姿をまた見失ってしまう。
菊は自身を落ち着けるようにグリーンティーを一口飲んだ。
アーサーも出されたアールグレイに手を付けていないことに気付いてカップに手を伸ばす。
既に温くなった中身は香気も大分飛んでしまっていた。
しかし冷めても十分美味しく、喉をするりとアールグレイが通り過ぎていった後には自然と口元が緩んでいた。
カチャリとカップとソーサーが重なる音が二つ。アーサーと菊はどちらからともなく視線を合わせた。
感情の読めない真っ黒な瞳にぽつんと一点が見て取れた。ここから先を言うべきか、躊躇っている光だった。
菊はなかなか口を開こうとはしない。だからアーサーが先に口を開いた。紅茶で潤った喉はするりと言葉を吐き出す。
「あいつは何を飲まされていたんだ」
「……疲労を和らげる薬を」
「菊」
アーサーが強く名前を呼べば菊はびくりと肩を跳ねさせた。
彼は別にアーサーに怯えている訳ではない。そんなことはアーサーにも分かっている。
菊の怯えはその内側から湧き上がってくるものだ。黒い瞳がより黒く見えるのはそのせいか。内側から罪の意識に苛まれているようだった。
菊が何に怯え、何に罪を感じているのかアーサーには皆目見当がつかない。
ただアーサーに出来ることは、菊の口から告げられるであろう事実をそのまま受け止めることだけだ。
アーサーは「菊」ともう一度強くその名を呼ぶ。
観念したように、あるいは後ろめたさを抱えて生きていくと覚悟したように、殊更ゆっくり菊は言葉を吐き出した。
「――麻薬です」
「ま、やく……?」
「優秀な飛空士を長く飛ばせる為、爆撃を繰り返す為、戦争だと割り切れない飛空士を飛ばす為――南部に配属された飛空士達は、常用的に麻薬を服用していました」
それも本人の意志ではないという。
全ては上層部が疲労を訴える飛空士達に「疲れを吹き飛ばす薬」として処方していたもの。
薬でハイになった飛空士達はそのまま飛行機を駆り爆撃を繰り返す。
そして疲労を感じたら薬を処方され――激戦地はその繰り返しです、と菊は今度こそはっきりと嫌悪感を露にして言った。
「あの丘の病院は軍の麻薬中毒者を収容する場所です。依存から抜け出す治療も行われていますが、あれだけ薬漬けにしておいて……取り返しのつかない程にぼろぼろにしておいて、軍は」
菊はそれ以上何も言わなかった。言えなかったのかもしれない。
切り揃えられた黒髪が菊の童顔を隠す。俯いた顔は確かに言葉に詰まっていた。
前髪に隠れなかった口元は戦慄いていた。菊は震える声でゆっくりと続きを紡ぐ。
「フランシスさんの配属先が決まると同時、私の配属先も決まりました」
「え、だってお前は留学生で」
「私は私の意志でこの国に残ったんです。この国で学んだのなら、この国に少しでも何かをお返ししたかった。私の国は……もうありませんから」
祖国がない、と言った菊は今日の話の中で一番感情を動かしていなかった。
フランシスの身に起こっていたこと。
会ったばかりの菊のこと。
次々に展開される話に、アーサーの頭は考えることを放棄しようとしていた。
アーサーは放棄しようとしても菊がそれを許さない。強い濡色の瞳がアーサーを射抜く。
「私の配属先は、あの病院でした」
「…………」
「私は、国の為に、愛する者の為に戦った人達を一人たりとも救えない無力な医者です。自分が愛した人が誰であるか、誰を守るために戦ったのか、思い出せない人達があそこにはたくさんいるんです」
「……フランシスもその一人か」
菊の話の通りならばフランシスも薬漬けになっているのだろう。
たとえ幼なじみに会ったとしても、彼は自分のことが分からないかもしれない。
ぞわりと足元から何かが這い上がってくるような気がした。
冷たく、それでいてどろりとした気持ちの悪いものだ。
アーサーはすぐにそれが恐怖であると悟った。
表面的には幼なじみ以上の感情を抱く相手に忘れられるという恐怖だった。
しかしそのどろりとしたものに手を突っ込み弄れば、指と指の間から零れるのは目を逸らしたくなるものだ。気付きたくもない自己中心的な思惑である。
アーサーはその存在に気付いたが、今はあえて言葉にしなかった。言葉にせず目を逸らしていたかった。
「フランシスさんはまだ軽い方です。とは言っても……世間的に見れば依存症であることに変わりないのですが」
だから、と菊は続ける。
「あなたに会っていただきたい」
「それは……!」
「あなたの言いたいことは分かります。とても自分本位な私が、私を満足させる為にあなたを呼び出しました。何も救えない訳ではないのだと、この道をもう一度信じる為にあなたを呼び出したんです」
本人がそれを認めているのなら、いくらアーサーが菊を責め立てようとも意味のないことだった。
あの病院の中では軽度だというフランシスにアーサーを会わせれば、フランシスは大切な幼なじみを守り切ったのだという証明になる。
薬に身と心を壊されながらも戦い抜いた男。
それを癒そうとする医者。
生きていて良かった、無事で良かった、と涙を流す自分。
その情景がまざまざと瞼の裏に描かれる。