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【パラレル】空中現実七番地【イザシズ】

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 音を立てるつもりがなくても、かさりという独特の布同士が重なって擦れる音は立ってしまう。
 臨也自身はすでに馴れきってしまい、もはやそれを音だと改めて認識するほどのものではないのだが、目の前のガチガチに固まった原石にとってはそうではないらしい。
 髪を切るには邪魔だから、と彼の掛けていたサングラスは鏡の前に丁寧に置かせてもらった。
 鏡だけを見て、それでもどこに視線をやればいいのかと静雄の視線は鏡面に映った景色をさ迷っている。臨也は軽く彼の両肩を叩き、鏡越しに苦笑して見せた。

「そんなに緊張しないでよ。別に取って食ったりしないから」

 静雄が鏡越しに臨也の苦笑をちらと見る。臨也も相手の顔を直接見るようなことはせずに、あくまで鏡の中の静雄に笑顔を向けた。
 本当か、と少し不安げな揺らめきを秘めた視線で、静雄が実像の臨也を見遣る。会って一時間も経っていないというのに、その視線は実に彼らしくないと思った。
 そんな思いが顔に浮かんでしまったのだろう。静雄はふいと顔を逸らすと、鏡に映った臨也の紅い目を睨み付けてきた。

「んなこと分かってるよ」

 吐き捨てて虚勢を張る姿に臨也は思わず吹き出しそうになり、道具を取る振りをして慌てて後ろを振り返る。それでも肩は小さく震えてしまったので、静雄は鏡越しにそんな自分の姿を見てしまったかもしれない。
 笑う姿を見られないようにするために後ろを振り返ったに過ぎず、実際この段階で手にすべき道具はない。形だけカチャカチャと音を立てて、その間に臨也は表情筋を整える。
 どうにか静雄と鏡面越しに対面出来るくらいには笑いも収まったので、臨也は思い切り営業スマイルを浮かべて振り返った。

「こうして見ると結構傷んじゃってるよねー……セルフでしょ? コレ」

 臨也が静雄の髪を一房取ってまじまじと見る。静雄が僅かに身じろいて、長くない髪は簡単に臨也の手からすり抜けてしまった。
 遠目に見た時にはそれほど傷んでいるようには見えなかったのだが、触ってみると滑らかさよりもごわつきの方が強い。髪質やスタイリング剤で固めているということは抜きにしても、この触り心地は憔悴し切る直前の髪だ。
 出合い頭に「カットとシャンプーとトリートメントとカラーをやらせて欲しい」と言ったものの、こんな髪にカラーは酷だ。見れば根本までしっかり染められている。これならカラーはすぐにやる必要はないだろう。予約表にカラーまでつけなくて良かった。

「これ、ブリーチもした?」

 静雄の髪の傷み具合からしてそう考えた方が自然だった。色を抜かなければ金というのはここまで綺麗に色が入らない。あるいは適切なヘアケアをしなかったか。
 どっちもだろうなぁ、と臨也は嘆息したくなった。唯一の救いは髪の毛と呼べなくなるまで傷んでいないことだろうか。毛先が傷みすぎると、どんなに弱い薬で染めても毛先が溶け出してしまう。
 臨也の内心の嘆きにも気付かず静雄はどう答えていいものか、といった様子で口を開いた。

「弟がほとんどやってくれたから俺はよく知らねぇ」
「知らない、って……自分の髪だろ」

 取り返しのつかないレベルまで髪が憔悴し切ってしまったらどうするつもりだったのか。
 呆れてものが言えないとはまさにこの事だろう。自分の容姿に無頓着というか投げやりというか。
 普通髪を染めるって一大決心じゃないの?
 そこまで他人任せに出来る心理が臨也には全く理解出来なかった。
 人任せにしたからこそ根本まで綺麗に染まっているのだろう。自分一人でやったのではここまでムラなく染めるのはちょっと難しい。

「えーと、当初の予定を変更して、カットとシャンプーとトリートメント……というかヘアパックにします。カラーは後日ってことで」
「は? さっきと言ってること違うだろうが」
「まさかここまで傷んでるとは思わなかったんだってば。それに染めたばっかりみたいだし、今日ここで染める必要ないでしょ」
「あー……けどよ」
「なに?」
「本当に、その、なんだ」

 ここまで言いにくそうだと、言いたいことの目星も自然とついてくる。

「お金のことなら気にしなくていいよ。こっちが好き勝手に弄らせてもらうんだから、タダは当たり前」
「そうはいかねえだろ」

 思えば彼は店を目の前にした時点で身を強張らせていた。更に案内されたのは予約必須のプライベートブース。そんなところがあるサロンの相場は分からなくても、肌で支払うのは苦しい額が請求されるのは分かっているらしい。
 臨也はもう一度静雄の肩の力が抜けるように軽く肩を叩いた。

「心配しなくてもいいっってば。シズちゃんは俺に誘拐されたとでも思っておきなよ」
「誘拐って……」
「じゃあ髪を風に掠われた」
「……勝手にしろ」

 はあ、と疲れ切ったように息を吐き出して静雄は背もたれに体を預けた。
 静雄が諦めやすいようにわざと相手を疲れさせるような態度を取ったが、我ながら腹の立つ物言いだったなと思う。確実に自分が同じことをやられていたら相手をぶん殴っているところだ。

「話もまとまったことだし、早速シャンプーいいかな?」

 ゆっくりと椅子を回転させて静雄を立たせる。
 その手を引く数歩の間で既に静雄に必要なトリートメントの選別を始める。実際に髪質を確かめながら、鼻歌混じりにじっくり選んでやろう。
 そんな胸算を立てて臨也はもう鼻歌を歌い始めていた。

「さっきの話の続きなんだけどさ」
「んー?」

 趣味でやっていることなので、仕事で客の髪を洗う時よりも丁寧な指遣いでやってしまう。自分が見つけた原石を磨き上げている最中なのだから、こうした形で力が入ってしまうのは仕方のないことといえた。
 シャンプーの泡や湯が顔に掛からないように顔を軽く薄手のタオルで隠されてしまっているせいか、静雄の声はくぐもって聞こえた。

「カラーは別の日、って言ったでしょ」
「ああ」
「シズちゃんの都合が合えばだけど、髪結構傷んでるから月イチくらいでケアしに来た方がいいと思う。プリンになる前に染めようと思っても、今の髪だと髪っていうか植物の根ってところまでパサパサボサボサになるよ」
「んなこと言われてもな」

 タオルの下で目を暝ったまま、静雄は困った顔をしたのだろう。少しだけタオルがずれた。

「事前に連絡、あと俺を指名してもらえばシズちゃんはロ・ハ。俺は自分が惚れた髪を弄り放題! これってどっちも損にならないよね?」
「そういう問題じゃ……」

 まだ何か言いたそうな静雄を無視して臨也はシャワーのコックを軽く捻る。適温になったことを確かめてからきめ細かな泡を流し始めた。

「まあ、髪に惚れたって言い方が気に食わないなら訂正するまでなんだけど」

 泡を洗い流していくと、細い金糸が熱くもなく温くもない流水に身を任せる様がよく分かる。
 濯ぐ時に軽く頭皮に指が触れただけで静雄はびくりと反応するのが面白い。臨也は故意に濯ぎの時間をゆっくり丁寧に使い、気取られない程度にその反応を楽しむ。

「俺がシズちゃんに会いたいから店に来て、っていうのは駄目? 好きな人の髪を触りたいって自然なことじゃないかな」