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エヴァログまとめ(353オンリー)

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瞼裏の鼓膜と口付けせよ(庵・3と5)



 少しずれた音。
 それが堪らなく愛おしいと思う。
 高音が掠れて、低音はどこまでも優しくて。
 この時ばかりはイヤホンを外してその歌に聴き入ってしまう。

「そんなに真剣に聴かれると恥ずかしいね」

 すっと溶けて消えた歌の代わりに、照れ臭そうな声がした。
 声と同様に照れ臭そうに笑む少年にシンジは思わず顔を逸らした。
 じっと聴き入るあまり、彼の顔を見つめていたことは事実だ。
 ただその事実は改めて思うと気恥ずかしい。
 第一、じっと顔を見つめられて居心地の良い人間などいないだろう。
 シンジは顔を上げ、謝罪の言葉を口にしようとした。

「ご、ごめん。あまりいい気分じゃなかったよね」
「そんなことはないよ。ただ少し恥ずかしかっただけだから」

 本当に? とシンジが念を押して尋ねる必要はなかった。
 カヲルの笑みは全てを許容していた。
 その笑みにシンジは申し訳ないやら情けないやらで、再び俯いてしまう。

 静かな沈黙が落ちた。
 意外な程に居心地の悪さはない。間を繋ごうという考えすら起こらなかった。
 音のない旋律が流れているように思えた。
 鼓膜を震わせない古典派音楽が二人の間を通り抜ける。
 空気を震わせないピアノが柔らかく二人を包んだところで、カヲルが唇を開いた。
 それはシンジの聞いたことのない歌だった。
 鼻歌を歌うことはあっても、こうしてカヲルが詞を乗せて歌を歌うことは珍しい。
 英語とは発音が異なる。
 しかし全く知らない音という訳ではない。
 あるいは聞き慣れぬ音であってたとしても、すっと耳に馴染みやすいのだろうか。
 あまりにも自然な歌声に疑問らしい疑問も湧いてこない。

「……不思議な歌」

 シンジの口から言葉が落ちた。
 他の誰かが歌っても、ここまで神秘的なものにはならないだろう。
 渚カヲルという存在が歌うからこそ、この旋律はここまで昇華されるのだ。柔らかく耳朶を撫でる歌声は背筋をふるりと震わせた。

「聖ヨハネを称える歌だよ」
「ヨハネ?」
「新約聖書に登場するキリストの使徒の一人さ」
「使徒……」

 シンジの顔が曇った。
 本来ならば聖人である彼も、シンジにとって「使徒」と言い表されただけで快くないものになる。頭の片隅ではここに攻めてくる存在や、目の前の少年とは異なるものだと分かってはいるのだが。
 カヲルはシンジの心情を汲み取って少し眉を下げて微笑んだ。
 他に言い回しがないのだからこれ以上適当な説明はないのだ。それでもシンジの顔が曇ったことにカヲルは申し訳ない気分になる。

「彼を称える歌が音階の元になっているんだ」
「へえ」
「ここの人間は旧約聖書の方に重点を置いているから、こんな些細な知識誰も見向きもしないんだけどね」

 ふふっ、と思わず零れた笑いをカヲルは隠そうとはしなかった。
 人間を笑うつもりではなかったが、話の流れからするとそう思われても仕方ないかもしれない。
 ちらと横目でシンジを見れば、彼はカヲルの知識に感心してその笑みにまで気が向いていないようだった。
 異なる種族を笑ったのか、嘲笑ったのか。その疑問が更にカヲルの笑みを浮かべた。その笑みは皮肉に歪んでいて、とても隣に座る少年に見せられたものではない。
 だから今度はその笑みをこそりと隠した。
 都合が悪いものを相手に見せまいとして、それがとても居心地が悪い。シンジの前では出来るだけ全てを曝したいと思うが、なかなかそうもいかない。
 この後ろめたさはリリン特有のものだろう。本来の自分には恥じらいも後ろめたさもなく、肉体は居心地の悪さなど感じないのだから。

「しもべたちが あなたの素晴らしい行いを
和やかな気持ちで称えられるように
彼らの汚れた唇の罪を清めてください、」

 カヲルはその使徒の名を呼べなかった。
 存在の次元が違う。どちらが上位か、というものではない。根本的なところから己と彼は違うのだ。
 本来ならばこうやって歌うことすら許されない立場なのだろう。

「……神とはかくも悩ましきものなり」

 歌の締め括りとは異なる句だった。
 シンジはぽかんとカヲルを見つめている。
 突然カヲルが歌い出したことにも驚いたが、その歌の落ち着くところがカヲルの悩ましげな表情だったのでシンジは余計に戸惑った。
 カヲルは己の矛盾を溶かし、シンジの戸惑いを解そうと隣の存在に手を伸ばした。
 決して温かいとは言えない指先でシンジの頬を包み込む。さっとシンジの頬に朱が注した。

「ねえ、シンジ君」
「なっ、なに?」

 上擦ったシンジの声にカヲルは堪らず笑い声を漏らす。シンジはそれに腹を立てる余裕もないようで、ただただ口をぱくぱくと開閉させるだけだ。

「今の歌で僕の唇は清められたと思うかい?」
「え……?」
「僕はこの汚れた唇で、君に口付けてもいいだろうか」

 熟れた林檎よりも尚赤く、シンジの頬が染まった。唇は小さく震えている。
 シンジの右手がカヲルの袖を掴んだ。精一杯の勇気を振り絞るようにして、ぎゅうと閉じられていた黒曜の瞳が現れた。

「カヲル君は汚れてなんかないよ!」

 だから、と続く言葉は儚く消えた。
 せっかく現れた瞳も、すぐさま瞼の裏側に隠れてしまう。
 どれだけ清めの歌を歌おうとも、カヲルは彼の唇に触れることは出来ない。
 唇と唇を触れ合わせることに、何故か躊躇いを覚える。
 そしてカヲルの唇が落ちた先は、黒曜の瞳を隠す瞼だった。


090809
『グレゴリオ聖歌』より