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その時ハートは盗まれた

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 オレも三橋の役に立ってやりたいんだ。そう心の中で強く唱えるだけでぐんぐんと血が沸きあがってくる。ハマちゃんハマちゃんとオレの後を追いかけてきたあいつが年上の彼女かぁ、なんて考えるだけでわくわくする。よし、オレもがんばるぞ!
「あのさ」
 下から袖を引っ張られて浜田は眉を潜める。いつものとおり冷めた目をした泉が、盛り上がってるところ悪いんだけど、なんて言うので浜田は急に冷静になって気をつけなんてしてみたりする。
「三橋の話、他のやつらにはあんまり言うなよ」
 妙な忠告だった。浜田は少しむっとする。いつもならわぁわぁとじゃれるように反撃するのに、まっすぐ目を向けたまま顔を顰めた。
「なんでだよ。野球部の連中なんて冷やかしたりするようなヤツらじゃないだろ」
 泉と並んで座っている栄口もそうだよ、と頷く。ほら見てみろ。
「ああ、ちょっと言い方おかしいか」
 泉はぼりぼりと少し伸びた黒髪を掻き毟る。視線が妙に彷徨ってから、床に目を落として、ぼそりと言った。
「阿部には言うなよ」
 一瞬、しんと空気が静まったような気がする。泉、栄口と浜田の小さなこの三角形の空間だけ、ぴたりと音がなくなったような、そんな妙な。
「……なんでだよ」
 重たい空気を振り払うように、動きづらい口を恐る恐る浜田は動かした。
「オレには三橋の……いや、やっぱなんでもない」
 泉はそう言ったきり、もう何も言わなかった。





廊下


 ふう、と三橋はため息をついた。
 赤くなった指先はじんじんしている。胸の奥もじんじんしている。なんだろう、なんでこんなにどきどきするんだろう。でもこの思い、初めてじゃないような気がする。
 冷やした方がいいと泉に背中を押されたけれど、やっぱり保健室に行って湿布ももらっておこう。部活が始まっても赤いままだったらきっと阿部は気が付いてしまうだろう。それはどうしてもいやだった。
「心配かけちゃうし」
 心配されることは気持ちよかった。意識の範疇に入っているということだし、大切にされている気がする。怒鳴られるのも無視されるよりずっと嬉しかった。三橋、と呼ぶ阿部の声を思い出す。じんじんする。指先、だろうか。
 廊下の窓は開いていて、さわさわと風が流れ込む。少し伸びた三橋の髪は風に揺れてぱさぱさとたなびいた。あの時見た黒髪の女性を思い出す。窓際に立って、靡く髪の隙間から横顔が見えた。きれいな顔だった。
 今まで綺麗な女性は何人も見てきたけれど、顔の造作一つで好きになるなんて嘘だとずっと思っていた。好きになるなら自分を大切に思ってくれてる人、なんて思っていたのに、流れる髪を片手で押える仕草一つで恋に落ちた。なんでかな。
「三橋!」
 ぼんやりと歩いていると、階段からそんな声が飛び出してきて、三橋は慌てて上を見た。踊り場の手すりから体を乗り出しているのはいつの間にかどこかに消えていた田島だった。
「た、田島くん! どこ行ってたの?」
「4階の家庭科室! それよりさぁ、聞いてくれよ、あのさー花井とあ…もがっ」
 嬉々とした様子で、まるで落ちんばかりに体を乗り出す田島の言葉が途中で途切れたのは、背後から伸びた手に口をがっつりと塞がれたからだった。暴れる田島を引き摺り下ろしたのはやっぱり阿部だった。
「田島―」
 低い声で名前を呼びながら長い腕を田島の首に絡みつかせている。田島はもがきながら阿部の手を振り解こうとごめんごめんごめんなさいと繰り返している。
「阿部の技はキッツイんだよ! 死ぬっ」
「お前が余計なこと言おうとするからだろ」
 ようやく阿部隆也のスペシャル頚動脈ギメから涙目になりながら田島が脱出する。ゲホゲホと咳き込みながら田島は三橋の後ろに逃げ込んだ。まるでそこが安全地帯といわんばかりだった。
 田島に背中を掴まれた三橋は後ろと目の前の阿部を交互に見比べる。
「余計なことって?」
「聞くな」
 冷たく一蹴されて、三橋はびくんと後ずさりしようとする。でも後ろには田島ががんと控えていて、逃げられない。あわわわわ、と目を挙動不審に動かすと、まだ階段の途中にいた阿部がとんとんと降りてきた。阿部の手が伸びてきて、いよいよ後ろに逃げ出したいのに、田島の手はがっちりと三橋をホールドしていてにっちもさっちも行かない。
「三橋、お前どうしたの」
「えっ」
「顔、赤いよ」
 熱でもあんのかな、と阿部の手が三橋の額に触れる。冷たいそれにびくっと体を縮めるのに、阿部の手のひらはそのまま三橋の頬から耳の下へと滑る。ごつごつした固い手のひらの感触がくすぐったい。
「熱は、ないか。でもちょっと熱い気がすんぞ」
 風邪引いてない?と聞かれるから三橋は何度もぶんぶんと強く頷く。どこもしんどくないしどこもだるくない。でも今まで全然痛みが引いていた指先が急にじんじんと痺れるように強く痛み出す。なんでだろう。痛みのリズムは心臓のそれと全く一緒で、急にドキドキと鼓動が早くなっているのに気がついた。
 痺れる感覚に頭がぼうっとする。どこかでついこの間、こんな感覚に陥った気がする。なんだっただろう。頭が回らなくてよく思い出せない。
 ぼんやりした頭を、ぴしゃっと両頬を手のひらで軽く叩かれて、三橋は我に返った。目の前に阿部の顔がある。熱い、といわれたらそうかもしれない。なんだか耳が熱くなってきたような気もする。
 ふとアップで見つめた阿部の口元に何かが付いているのが見えた。
「あ、阿部くん、何か付いてる、よ?」
 三橋はそろりと指を伸ばす。指で口角に触れるとそれはすうと消えてなくなる。触れた自分の指先はピンクがかった薄い茶色の脂で汚れていた。
 それが何か分からないほど三橋だって初心じゃない。どう見ても、それは口紅だった。大体口元に付いていたわけだし、と思いながら、三橋はえええええ、と混乱する。阿部の顔と指先を何度も見比べる。
「なに、なにが付いてんだ?」
 阿部は三橋の指先を見る。が、阿部はその脂を見つける前にぐっと三橋の手首を掴んだ。いたたた、と口に出すより前に強く持ち上げられる。
「お前、指赤くなってんぞ? どうしたんだよこれ」
 あああ、見つかってしまった。隠すつもりでそれほど痛くもないのにこそこそと保健室に向かっていたのに。だけどここまできて阿部が素直に手を離してくれるとも思わないし、阿部に隠し事が出来るとも三橋は思わなかった。目を白黒させながら、怒られる自分を想像する。怖い。だけど黙っているのはもっと怖かった。
「く、釘打ってて、手が滑って」
「ばっ、ばかか! 何やってんだよ!」
 慌てて赤い小指の先にそっと、まるで硝子細工を扱うように阿部は触れた。痛いか、と聞かれるから、三橋は迷って首を振る。骨は、と聞かれるから今度は大丈夫、としっかり答えた。
「お前もう金槌振るうなよ。ただでさえぼーっとしてんだから」
 こくこく、と首を振る。そしてやっぱり気になって、人差し指に目を落とす。
「なに。やっぱり痛ぇんじゃねぇの?」
「ち、ちがう、よっ。こ、これ……」
 そう言って阿部に自分の人差し指を突き出した。べっとりと付いた脂質の色に、今度こそ阿部は目を落とす。
 見る間に阿部の顔から血の気が引く。ざああ、と音でも聞こえてきそうな勢いだった。
作品名:その時ハートは盗まれた 作家名:せんり