その時ハートは盗まれた
「口、紅、だよね?」
「ち、ちがっ」
阿部はまるで壊れたロボットのように首と手を振った。違うもなにもそれ以外に何があるというのだろう。
「阿部くん、口に、ついて、た、よ」
「違う、断じて違う!」
お前の誤解するようなことは、と阿部は必死だった。ゴカイ?と三橋は首を傾げる。それで止めておけばいいのに後ろに控えていた田島がそうだよ、とこの上なく明るい声で阿部に同調した。
「別に阿部はやらしいことしてたわけじゃないよ!ただ文化祭でじょ……げぼっ」
「言うなって言ってんだろ!」
ぐっと伸びた阿部の手でシャツをつまみあげられた田島は真剣にもがいている。阿部くん、そのままだと田島くん危ないよ、と言うか言うまいか迷っているうちに阿部は口を封じるように田島の小柄な体を担ぎ上げた。半分引き摺る田島の体をそのままに、すたすたと元来た階段を上ろうとして、阿部は思い出したようにくるりと体を返した。
「指、ちゃんと冷やしとけよ」
「う、うん。今から保健室、行く」
「すぐが肝心なんだからな」
「わかって、ます」
それだけ言うと逃げるように上の階へと消えていった阿部の背中の残像を、三橋はじっと見つめた。阿部に触れられた指をぎゅっと握ると、ふっと痛みが消えた気がする。
廊下の窓にふと目をやる。自分の呆けたような顔が映っていて、それがほんのり赤くなっている気がした。やっぱり阿部の言うとおり、熱でもあるのだろうか。まさか本当に風邪を引いてしまったなんてことは。慌てて三橋は自分の額に触れた。熱いような、気もしないでもない。
ぼんやりと廊下に立ち尽くしていると、急に肩を掴まれて、三橋はひゃあと大声を上げて飛び上がった。顔を上げると、そこにいたのは栄口だった。その後ろに、泉と浜田まで。
栄口は三橋の大声に驚いたように大きな目をまんまるにさせていた。
「ごめん、脅かして」
「い、あっ、オレこ、そ、ごめん。おっきな声出しちゃって」
ぶんぶんと顔を振る。みんな、どうしたの、と聞くと栄口の後ろから浜田が「お前があんまり遅いから心配で」と声を掛けた。
「う、あっ、ごめんね」
「嘘だよ。サボリの口実だから気にすんな」
泉に肘鉄を食らって浜田がふらふらするから三橋もほっとして笑う。そんな三橋の肩から手を外さないまま、栄口はじっと食い入るように三橋の顔を見つめていた。その強い視線に気が付いて、三橋は体を小さく縮める。大きな目が自分を離さないものだから、三橋はどぎまぎして視線を下に落とした。
「なぁ、もしかして、あの人に会った?」
「え、あ、あの人?」
「今、さっき。誰かにあった?」
聞かれて、三橋は小さく頷いた。
「あ、あったよ。阿部くんと、田島くんが……」
「田島かよ! ていうかあいつどこに行ってんだよ!」
田島の名前に浜田が飛び上がる。暖簾を放置している自分を棚に上げてあのサボリーと浜田は大層憤慨しているようだった。
「あ、家庭科室って、言ってたよ。阿部くんと一緒で」
先ほどの概略を説明すると、浜田は笑った。なんだか知らないけれどサボリ田島はろくな目に会っていないようだった。ばかだなぁあいつ、9組で作業してれば阿部様からの折檻を食らうこともなかったろうに。
「ふうん、阿部と田島かぁ」
栄口は何か納得できないような顔で首を傾げた。おかしいなあ、確信したんだけど、とぶつぶついうから泉になにがだよ、と突付かれる。
「オレ絶対今三橋、あの三年の先輩に会ったんだと思ったんだけど」
「え、な、なんで……?」
だって、と栄口はきっぱり言う。
あの時と同じ顔してたよ、三橋。
言われて三橋はそっと自分の頬に手を触れる。
「違うよ……さっきは、阿部くんと……」
阿部くんと会って、阿部くんに触られて、阿部くんに触って、阿部くんと一緒にいただけだ。それだけだよ。
でもその続きの言葉は一つも声にはならなくて、三橋は阿部が消えていった階段を見上げる。
屋上
「阿部がみはっ……」
「お前、声でけえよ」
泉に手で止められて浜田は口の中に言葉を飲み込んだ。
屋上のコンクリートの上。頭の上は真っ青な空が広大に広がっていて風なんかも爽やかで気持ちいい。のに頭の中はそれどころではなかった。ぐるぐるする頭を押えながら、浜田は泉の手を押しのけた。
「ゴメン。でもそれ、マジ?」
「お前気が付かなかったの?」
今ひとつ三橋の片思い大作戦に乗り気でない泉を訝しがっていた浜田だったけれど、こういうオチがあったとは。外れそうになる顎を押えて、浜田は今までの数々の阿部の所業を思い出す。三橋の様子をじっと見つめながらボール磨きしている阿部とか、休みごとに三橋に合わせた配球を組み立てたメモを書いている阿部とか、試合中もネクストバッターボックスから必死の面持ちで三橋の立つホームを睨んでいる阿部とか、思い出すとキリがないけれど、確かにいつだって阿部の視線の先には三橋がいた。
「オレ、阿部ってすっげぇ投手のこと大事にするキャッチなんだなぁって思ってたよ」
「まぁ、それもあるだろうけどさ」
あれは行き過ぎだろ、と言われて浜田は小さく頷く。それは認める。
「でもそれだけで阿部が三橋のこと好きっていうのは、いや好きなのは好きだろうケド……」
浜田は少し非難がましく泉を見下ろした。野球部でそういう憶測の色恋沙汰はあまり大きな声で言えることではないだろうと思う。いくら新設部で監督と顧問がそういう面では心底暢気なあの二人だとは言っても、だ。だってど、ど、同性だぞ。ああ頭がぐるぐるする。
泉は冷ややかな表情のまま、指折り数え始めた。
「合宿の時、寝てる三橋にキスしてるのを見た。三橋の腰を触って真っ赤になってどっかに走っていった阿部を見たこともある。多分駆け込み先はトイレ。それからこないだバスで遠征行ったとき、疲れて眠った三橋を──」
「いや、もういい。マジでもうわかった」
「だろ?」
いやな想像をしそうで必死で泉を止めた浜田は、はぁと深いため息をついてフェンスにもたれかかった。ざん、とコーティングされた金属が触れ合う軽い音がする。そのまま浜田はずるずるとしゃがみこんだ。
同性をそういう風に好きになる気持ちは残念ながら浜田には分からなかったけれど、切ないなぁと思う。阿部が三橋に対して軽い気持ちになるとは思えなかったし、あの思いつめそうな男がどんなに三橋を大切にしているかもわかる。だからこそいまだに三橋に手の一つも出せないのだろうし。それから三橋が阿部のことを心底信頼しているのも知っている。自分に全身全霊の好意を持っている相手に手出しできないなんて、阿部、お前はまたよりにもよって一番やっかいな相手を。
三橋の初恋の成就はやっぱり応援してやりたいけれど、こうして阿部の思いも知ってしまうとどうしていいのかわからない。浜田はぎゅっと自分の両膝を抱え込んだ。
ああ、泉が張り切る栄口を前にして難しい顔をしていた理由が今になってよくわかった。
「だから栄口に協力的じゃなかったんだな」
「……別に、そういうわけじゃねーけど」
作品名:その時ハートは盗まれた 作家名:せんり