その時ハートは盗まれた
校庭
何か物言いたげな泉を浜田が引き摺ってどこかに消えてしまったので、栄口は三橋を連れて保健室へと向かった。幸いなことに、というか本人も最初からそう言っていたのだけれどたいした打撲でもなく、念のために湿布を貰って保健室を出た。
「お」
ドアを開けた途端、勢いよく駆け込んできた誰かとどんとぶつかる。そんなに大きくない自分より一回り小さいこの頭には見覚えがある。栄口は自分の胸元にべっとり張り付いたそれをべりっと引き剥がした。案の定そばかすいっぱいの鼻っ面をぽりぽり掻いてイタタ、とか言っているのは田島だった。
「あ、お前どこ行ってたんだよ」
「え、阿部の魔の手からようやく逃げてきた」
そうじゃないだろ、サボリ魔が、と同じクラスじゃないのに栄口はため息と共に肩を落とした。9組の面子に心底同情する。
田島を押しのけて栄口は保健室を出た。どうしたものかと目をぱちくりしている三橋の手を取って廊下を進むと田島も金魚の糞のように付いてくる。三橋の手を取って大丈夫か、と真面目な顔をして聞いているので栄口は何も言わずに階段を上る。
「で、どこいくの?」
「3階」
3階は3年のクラスの並ぶ階だった。1階の1年のクラスの並ぶ廊下と造りは全く一緒なのに、なんでこんなに緊張するんだろう。ようやくたどり着いた3階の入口に立って、栄口はごくりと唾を飲みくだした。三橋の手をぎゅっと掴む。
「行くよ」
「なぁなぁ、なにすんの」
「田島うるさい」
上級生のクラス行くんだからちったー緊張しろ、というのも田島には無理だろうか。文化祭の準備で廊下を忙しなく行き交う3年生たちは喧しい田島をちらりと一瞥しただけで通り過ぎていく。栄口が気にするほど向こうはこちらを気になどしていないのだろう。それで少し肩の力が抜けて、ふうと深呼吸をした。戸惑っている三橋の手を引いて3年4組へと向かった。
姉の後輩に昔借りていたものを返すという口実を作っていた。軽いCDを脇に抱えて4組のドアの前に立つ。何度か栄口の家に遊びに来ていたことのある彼女は栄口にも見覚えがあったらしく、すぐに笑顔で近づいてくる。4組の中はHRが終わった直後だったのかなにやら文化祭の話し合いでもしていたのか、ざわついている割に全員が着席していた。ノートになにか書いている人や抽斗を探っている人に目を配る。
やがてやってきた彼女にCDを渡すと、栄口は何気なさそうに尋ねた。
「このクラスって、セーラー服着てる人とか、いるんですか?」
「えー。セーラー? そんなのいないと思うけど」
どうして、と聞かれて栄口は曖昧に首を振った。あれ、なんかおかしくないか。胸の奥がもやもやしてくる。
頭を下げると、三橋の背中を押して3階から小走りに降りた。一気に一階まで出て、校庭に出る。田島が何か言っているけれど、聞こえなかった。スニーカーも半分足に突っ込んだまま、初めて三橋が黒髪の人を見た場所に立った。3階を見上げる。
「三橋、あの人いた?」
「う、ううん。いなかっ、た」
「あのパイプの配管のある柱の横の教室で間違いなかったよな?」
「う、うん。多分……じゃなくて、絶対」
「何、何の話?」
田島が三橋の肩越しに聞いてくるから、栄口は4組の教室を「あそこに」と指差した。
「三橋が一目惚れした人がいたんだ。長い黒髪で、濃いセーラー服来た人だったって」
へぇ、と驚いたように田島が大きな目を丸くした。三橋と栄口の顔を見比べている。にやりと笑って「やるじゃん」と三橋の背中を叩いている田島を無視して、栄口は校舎を見上げた。何かおかしい。じゃなくて確実におかしい。3年4組には三橋の言う黒髪のセーラー服のひとはいなかった。というかむしろこの学校に存在するのか。
視界にさわりとこげ茶色の何かが一瞬映った。栄口は目を擦る。深いこげ茶色の長い髪が風に靡いている。そして紺色のセーラー服の襟だ。どこだ、屋上?
「み、三橋。あれ!」
指差すと、三橋は慌てて栄口の指を辿って視線を上げる。
「あ、あの人……」
「オレも見た、ちらっとだけど。お前が言ってたのあの人だよな?」
「う、うん!」
屋上の金網の向こうに長い髪の後姿が見えた。確かに三橋が言ったとおり、セーラー服の少女だった。他に誰かいるのか、少女はそのまま数歩向こうに歩み寄る。姿が全く見えなくなって、三橋と栄口は顔を見合わせた。屋上だ。
「行くぞ」
栄口は驚きのあまり動かない三橋の手首を掴んで走り出した。急がないと、消えてしまいそうな気がした。三橋は縺れる足を必死に動かして栄口に付いていっている。
一人取り残された田島はぽかんと口を開けたまま、転ぶみたいに走る二人を見送った。それからゆっくりと屋上を見上げる。そして首を傾げた。
田島も見た。さっきの二人が追いかけていく人影を。
「だけど、あれって……」
言い掛けて、急におかしくなってにまっと笑う。ま、いっか。と思いながら、うきうきと二人の後を追いかける。
屋上再び
「三橋の好きな子って、なに」
「なにって、そのまんまだろ」
オレに詰め寄る前にその化粧取れ、せめてヅラぐらいは、と言いたいけれど、あまりに真剣な阿部を前にして泉は何も言えなくなる。だけどふいに吹き出しそうになるので必死に腹の筋肉を引き締めて、目を僅かに逸らす。やめろ、詰め寄るな。
「誰だよ、それ」
「知らねぇ。3年の女子だって栄口が言ってたけど」
「なんで栄口が知ってるんだよ」
「しらねぇよ」
吐き捨てると、阿部は苛々と地面を蹴った。誰が持ってきたのかご丁寧に靴までパンプスときている。きれいに光った皮の爪先を眺めながら、こいつは本当に三橋のこととなったら見境ないなぁと泉は思う。
「んな苛々するぐらいならちゃんと三橋に言えば?」
「言うってなにをだよ」
「なにをって、好きなんだろ」
言葉を投げつけると、阿部は俯いて視線を逸らした。いつもと違う長い前髪が阿部の顔を半分以上隠してしまうから、本当に女の子を相手にしているみたいで泉は少し混乱する。違う違う、こいつはうちの副主将なんだって。
どうしたらいいか分からなくて目を白黒させている浜田を背中に、泉は阿部の顔を覗きこんだ。
「好きって、言ってどうなるんだよ」
髪に隠れて阿部の顔は見えなかったけれど、薄い唇がぎり、と噛んでいるのだけが長い髪の間から見える。血が零れそうで、泉の後ろで浜田ははらはらするけれど、体は動かなかった。阿部はますます固く体を強張らせる。
「オレが好きっていったら、あいつウンって言うしかねえだろ。付き合ってとか言ったら絶対頷くだろ。でもそれはオレが好きだからじゃなくてオレに嫌われたくないからだろ。そんなの、あいつが可哀想だもん」
お前、ホンットに三橋が大事なんだな、と泉が言うと、阿部は小さく首を振った。
三橋に彼女ができるかもといって苛々と床を蹴るほど感情が隠せなくて、上手く捕球できるはずがない。なんで三橋を好きになっちゃったんだろ、と阿部は呟いた。好きにさえならなかったらきっと何もかも上手く行ったはずなのに。こんなにぐちゃぐちゃになるほど心を掻き乱されなければ、最高のバッテリーになったはずなのに。
オレ、いっつも上手くいかね。
作品名:その時ハートは盗まれた 作家名:せんり