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君と僕の六ヶ月

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§

「お?」
 朝錬のときだった。花井と組んで背筋を伸ばしている時にやってきた田島が首を傾げる。
「三橋の匂いがする」
「匂いって、お前は動物か」
 突っ込む花井を無視してくんくんと田島は、固まる阿部と花井の周りを嗅ぎまわった。阿部はぎくりとする。昨日三橋に貰ったシャンプーを使った。さすがに三橋家は良いものを使っているらしい。手触りも髪の滑らかさもたいしたものだったけれど、そんなことより匂いが確かに、田島の言うとおりだった。ベッドの中でも奇妙な気分になった分、田島の指摘が少し後ろめたい。何も口篭るようなことではないと分かっていても。
 くんくんと続けていた田島は、阿部の頭をぐいと押さえ込む。
「い、いてっ」
 がっつり掴んだ阿部の髪に顔を突っ込むと、田島はおお、と声を上げた。
「阿部から三橋の匂いがする」
「へんな言い方するな」
「なになに」
 相方だった田島がふらふらしているのを捉まえようとやってきた水谷まで首を突っ込んできて、事態が収拾付かなくなってきた。阿部は田島を必死で引き剥がした。
「なんでなんでなんでどうして」
「シャンプー切らしたから貰ったんだよっ。文句あるか」
「なんでどうして」
「買いに行こうと思ったら、三橋とばったり会って、それで」
 阿部が低いテンションでそう説明すると、花井はなるほど、と言い、田島はひどく残念そうな顔でなぁんだ、とため息をついた。そんなことか、つまんねー。
 そんなことだよ、と阿部は心の中で呟き、どっと落ち込んだ。昨日から阿部は気分がよかった。いつも使っているものとは少し違う甘い匂いが気分を変えた、というのはやっぱり言い訳だ。三橋がずっと傍にいるような気になっていた。同じ匂い、同じシャンプー。なんだか特別な気がしたのに、自分で説明するとあまりにそのシンプルな構図にがっかりする。特別でもなんでもなくて、このシャンプーを手に入れたのは単なる流れだ。別に自分でなくても。
 ちらりと三橋を見る。泉と二人で真剣な顔で大腿の柔軟に励んでいる。目は合わなかった。ふうとため息をついて阿部はストレッチに戻ろうとした。別に何か期待してたわけじゃないけどさ。
「でもさーこれってスゲー高いシャンブーじゃねぇ?」
 水谷が思い出したように手を打つ。確か一本9千円ぐらいしたような、というと田島と阿部は単純に値段に驚き、花井は冷静に突き返す。
「なんでお前が三橋んちのシャンプーの値段を知ってんだよ」
「うちの姉ちゃんが同じの使ってたんだよ、前に」
 そうと知らずに姉のシャンプーを使ってしまった水谷は頭皮が剥がれ落ちるほど殴られたらしい。9千円もしたのに、ばかっばかっ、バカフミキ金返せ、とその後もしつこく付きまとわれたので値段はしっかり覚えていた。その話を三橋にしたときにうちもたぶんそれつかってる、よ、とかいう流れになったらしい。
「白い、結構でかいポンプのやつだろ。トリートメントもさらさらの透明な」
「おお、それだ」
「そんなのさらっと人にやっちゃうなんて、三橋気前いいというか」
「金銭感覚違うというか」
「さすが金持ちというか」
「値段しらねえだけだろ」
 はぁと全員ため息を吐く。アキレス腱を伸ばしている三橋はよもや自分の話で盛り上がってるとは全く思ってもいないらしく、一生懸命ストレッチに勤しんでいる。その姿を4人並んで眺めつつ、7組プラスαの談義に花が咲く。
「しかもあいつジョギングしようとしてたんだろ? このクソしんどいのに良くやるよな」
 オレなら頼まれてもやんねえよ、と水谷が首をすくめた。
「たまに、とか言ってたけど」
「あいつのたまには信用できないだろ」
 花井に言われて阿部ははっとする。そうだ、そうだった。あれがジョギングとか始めてそれだけで済むはずがない。地区大会が終わって5ー9の強行軍猛特訓はひと段落したけれど、練習後にまた自主練習時間を毎日取るほど余裕のある練習をしているわけではなかった。
「くそっ、あい──てってててて!」
 阿部がいきなり頭部に走った激痛に声を上げると、傍にいた水谷たちも次々にギャイギャイ悲鳴を上げ始めた。振り返ると鬼のような形相で微笑んでいる監督が。手には甘夏でなく、田島と水谷の泣き顔が。
「あんたたち、ストレッチいい加減にしてると怪我するよ!」
「はいっ! スイマセンでしたったたたた」
 モモカンの握りが強烈過ぎたせいでそれきり話は雲散霧消してしまったのだが、阿部の頭の中は一日中三橋だらけだった。午後の練習でもなんとなく気になり続けてもやもやし続ける。視界にちらちらすんな、オレを惑わすな。家に帰ってまでオレの脳裏にちらつくな。   
 見ているとやっぱり気になるけれど、見えないともっと気になる。阿部は風呂上りの髪を拭きながらぼんやり考えた。あいつ今なにしてんだ、風呂入ってるのか、メシ食ってるのか。それともまさか。
「あーもうクソッ」
 ベッドの上で手足のストレッチをしていた阿部はもやもやを振り払うようにそう声を上げた。ベッドを降りる。
風呂上りは動くと三橋の匂いがする。濡れた髪を急いで乾かすと、阿部はパーカーを羽織って部屋を出た。廊下で弟に兄ちゃんいい匂いするとか気味の悪いことを言われたので、あのシャンプーは絶対使うなと釘を刺してから外に出た。
夏とは言え、夜は少し冷える。風呂上りに外に出るなんて馬鹿のすることだった。分かっているのに頭のどこか片隅で言い訳している。ちょっとだけ、少しだけ。それで三橋が出てこなかったら安心するんだ。
 軽い歩調で三橋の家に向かう。何度見ても敷地の広い家だった。塀で囲われた、というより木々に囲まれた、というかんじだ。
 はぁ、と息を吐いて屋敷を見上げる。三橋の部屋はどれだっただろう。一階と二階の何部屋かに灯りが灯っていた。ちゃんと休んで寝てるんならいいけど、と思いつつぼんやり二階を眺めた。あそこだったっけな。いや、角部屋だったっけ。窓が前と横にあったような。
 静かに張り詰めたような夜の空気の中、蝉の声だけがじいじいと煩い。阿部はしばらくそこで音を聞きながら立ち尽くしていた。もう帰ろう、と踵を返したときだった。
 ぱしっ、と音がしたような気がする。
 なんだろう、あの軽い音は、と思う間もなくもう一度ぱしり。なんだっけ、これは。阿部の頭の中に5月のあの日見た、重ね貼りしたガムテームが浮かび上がった。ぱしっ。右下、左上。阿部の指示と共に響いたあの音と、似ていた。
 パシッ。
「ぁんのやろ」
 阿部は首にかけていたタオルを地面に叩きつけた。目の前の門を開けて一直線に池のある庭に突き進んだ。一度来ただけだったけれど充分覚えている。三橋家がセキュリティに入っているとかそういうことは考える暇もなかった。案の定ネットで作った投球練習場にはライトが灯っていた。
「ナニやってんだ!」
「ひぃっ」
 投球体勢に移っていた三橋は、突然沸いた声に驚いて腕がぶれた。手からすっぽ抜けた球は的どころかネットを外れ、阿部が仁王立ちになっている方向に飛び出した。阿部は右手を伸ばして球を取る。バシッと乾いた音がした。さすがに三橋の球といえども素手で硬球を取ると相当痛いはずなのに、じんじん痺れるだけで痛みは感じなかった。
作品名:君と僕の六ヶ月 作家名:せんり