君と僕の六ヶ月
「あ、ああ阿部君? なんで……」
「なんでじゃねえよ、投げ込みすぎんなって監督に言われてるだろ? しかもお前ジョギングとかもしてんじゃないだろうな」
「えっ、あっ、きょ、今日はしてないよ!」
今日はということはプラスジョギングをしている日もやっぱりあるらしい。呆れるとかを通り越して阿部は貧血でも起こしそうだった。むしろ高血圧による目眩とか。
阿部はすうと息を吸い込むと、かっと大声を出した。びりびりと空気が揺れる。目を瞑った三橋の体も揺れる。
「おまえなぁ、休む時はちゃんと休め、練習する時はしろ。球数制限だって監督とオレがちゃんと考えてやってんだからな」
「ハイッ」
気をつけの姿勢で返事だけは元気良く。阿部は腕組みしながら仁王立ちで三橋を見た。焦って真剣な顔をしているけれどどれだけ話を聞いてることか。やっぱり来てよかった。オレがこなかったらこいつ一体何球投げるつもりだったんだ。
「自分の体、大事にしろよ」
はぁと息を吐いて、できるだけ落ち着いた声色で言うけれど、三橋はまだびくびくとしている。緊張しているのか、ちらっちらっとこちらを窺うように視線を上げては慌てて逸らせる。なんだかむかつくなぁ、と阿部は悲しく考える。
「あのさぁ」
またびくっと肩を強張らせて三橋が固まった。こんなにぎしぎしに肩に力入れといて、もしかしてオレが肩故障させるんじゃないか、とか阿部にしては悲観的なことまで思ってしまう。
「なんでそんなにオレといるとびくびくすんの?」
まだ少し湿っている髪をかき上げ、ため息を押し殺すようにそう聞くと、三橋はちらと目を上げて、ぼそっと呟いた。
「お、おこって……」
「怒ってない、怒ってるんじゃなくて心配してる」
驚かさないように、びびらせないように、出来るだけ言葉をゆっくり吐き出す。すると三橋はふうと息を吐いた。まだ緊張の力は抜けていないようだった。
「阿部君といると、いつも緊張するよ」
「なんで」
「嫌われ、たく、ないから」
嫌う? オレがか?
驚いて目を丸くすると、三橋はますます小さく俯いた。
「は、畠君と、おんなじようになっちゃったら、どうしようって、オレ怖い、んだ。ううん、もっと怖い。三星にいた時よりもっと怖いよ」
「あいつと一緒にするなよ」
そういうのに、三橋はぶんぶんと首を振った。
「畠君だって、最初は普通に優しかったよ。だけど、オレあんなんだったし、叶君にもひどいことしたし、でもオレピッチャー好きで、だからやってけたんだけど」
阿部君に嫌われたらもう投げることだってできない気がする。阿部君にだけはどうしても嫌われたくない。
ボソリと三橋は呟いた。
「だから、すごく、怖いよ」
バケツから球を取ると、三橋はぎゅっとそれを握った。まるでそれだけで安心できるライナスの毛布のように、ふうと三橋の肩から力が落ちる。
阿部はぐるぐると混乱した。どういう意味だ、怖いのか特別なのか、なんで今更あの捕手が出てくるのか、それほどトラウマになっているのは分かっていたけれど、まだオレたちの力が足りないのか。
球を胸の前でぎゅっと握ると、三橋は顔を上げた。いつになく力のある目をしている。マウンドの上だけで見せる、あの顔だった。
「阿部君は、どうして、ここに来てくれたの」
夜の人工的な陰影が三橋の顔にくっきりと付いていて、それはいつもより意思の強い表情に見えた。阿部は少し戸惑って視線を逸らせた。自分だってよく分からなかった。初めて三橋の球を受けたときも沸きあがった、形のつかめない衝動が今でも阿部の胸に燻っていて、時折戸惑う阿部の背中を押す。ただ分かることは、三橋のことが気になる、それだけだった。
「お前が、心配で」
三橋は黙っていた。その目にはそんなことを聞いているんじゃないとはっきり浮かんでいる。阿部はゆっくりと三橋に近寄った。静かに漣を立てる池を通り過ぎ、均した土に足を踏み入れた。足先に転がっていた球がこつんとぶつかる。後もう少しで三橋に手が届く位置まで来て、阿部は足を止めた。これ以上動かなかった。
「……わかんねぇ」
三橋はやっぱり何も言わなかった。じっと阿部を待っている。
「けど、多分、お前が好きだから、気になるんだと思う」
三橋は言葉が足りないとよく文句を言っていたけれど、自分もたいがいだと阿部は思う。言葉が詰まって出てこない。好きだとか、胸の中が三橋でいっぱいだとか、怪我して欲しくないとか抱きしめたいとか、気持ちはいっぱい溢れているのにそれをいうだけで精一杯だ。阿部はちらりと目を上げる。
目の前の三橋は大きな瞳からぼたぼたと涙をこぼしていた。
「みは……」
「お、オレもっ」
ずび、と鼻水を啜る音がする。
「オレも阿部君が、すっごく好きだから、怖いんだ、よっ」
涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔を三橋は必死で袖で拭く。急に気持ちが溢れて阿部はその顔に手を伸ばした。三橋がびくりと後図去る。
「逃げんなよ」
吐き出すように小さく言うと、強張った顔をした三橋が僅かに頷いた。一歩、一歩阿部は三橋に近寄る。目の前に立ってその顔に手を伸ばすと、きつく目をつぶった三橋がその手に怯えるように首を小さく竦めながらも逃げずに必死で立っていた。頬に触れると暖かくてさわさわとしていた。うわ、うわ、なんか、すげぇ。阿部はゆっくりと手を滑らせるように首筋に回した。そのまま背中を摩って、ぎゅっと細い体を抱きしめる。
「好きだ」
それしか言わなかった。それで充分な気がした。
三橋はしばらく戸惑ってから、ゆっくりと阿部の背中に手を回す。縋りつくみたいにぎゅっとその体に抱きつくと、またあふれ出した涙で擦れる声を搾り出すように呟いた。
「オレ、ずっと、ずっと阿部君の傍に、いたい」
「いるよ、ずっといるって。卒業しても、ずっといるから」
首を振って泣きじゃくる三橋の背中を阿部は何度も慰めるように撫でた。愛しさと不安が込み上げる。
全部これが夢だったらどうしよう。夜の帳の見せた夢で、気が付いたらベッドの中だったら。そんなありえない不安がよぎるけれど、背中に立てた三橋の指の食い込む痛さがこれは現実だと教えてくれる。痛みが嬉しくて仕方ない。
ふと笑うと、涙の乾かない三橋が怪訝な顔で阿部を見上げた。
「どう、したの?」
「なんでもない。もっと、ぎゅっとして?」
これが夢じゃないといつでもオレに教えて。