頭が忙しい
名簿のコレ、何?
牛乳パックを片手に名簿を確認する花井の指摘に答えようとしたら、すかさず阿部が水谷だろと言った。
「こういうことすんのは田島か水谷しかいねぇ」
栄口は休み時間に起きたあらましをかいつまんで二人に説明した。花井が見ている名簿の紙の裏側に滲んだ黒いハートマークと、そこに薄い影がかかっていた。栄口の修正の跡だった。
「田島は天然だけど水谷はわざとだよなぁ」
花井がそう言うと、阿部は弁当から顔を上げていい迷惑だ、とぼやいた。それから数学のノートを貸したら似てない似顔絵が描かれて帰ってきたエピソードを憎らしげに語った。箸で栄口を指し、うぜえんなら俺から言ってやるよという阿部の申し出にそこまでじゃないと言葉を濁し、花井の向こう今は誰もいない席を見た。水谷はクラスの数人とコンビニまで出かけている。
(あいつはさ、かまって欲しくてやってるだけだと思うぜ)
そんなの花井がわざわざ言わなくても分かってる。分かってる。分かってる。どうしてだろう。さっきから余計むかつきがひどくなった気がする。
(問題は)
購買からの帰り道、廊下に自分が立てる足音でさえ気に触る。
(何にムカついてんのかわかんないんだよな)
廊下の隅のタイルの剥げた箇所を見つけたとき、俺はさっきから下しか見てない、と栄口は気づいた。ふと周りを見渡すとそこはもう渡り廊下だった。薄い青空が小さく覗く。
「すいませーん」
足元にバドミントンの羽根が落ちた。中庭に目を向けると、男子生徒がこちらに向けて手を振っている。
栄口はその羽根を手に取り、軽く振りかぶって投げた。シュ、と小気味よい音が響き、羽根は放物線を描きながら男子生徒の手の中に入った。
ああこの感じ、気持ちがいい。投げれば飛ぶ、シンプルに相手に届く。俺もこうありたい。
「ナイピ!」
遠くでありがとうと手を振る男子生徒とは違う、近くからの聞き覚えのある声に驚いて振り返ると、水谷が後ろにいた。
へらついた笑顔にまた怒りがこみ上げてくるのを感じた栄口は、声をかけられたことなどなかったかのようにまた前へと歩き出した。
「待ってよぉー」
水谷が伸ばした手は変な所を掴んで、栄口のズボンの中に入っていたワイシャツの裾をずるりと引き出してしまった。
「何なんだよ……」
その要領の悪さに軽く辟易した栄口が水谷に尋ねたら水谷は栄口が手にしたコーヒー牛乳の方に関心が移っていた。
「いーなー、コーヒー牛乳。一口ちょうだい」
「お前コンビニ行ってなんか買ってきたんじゃないのかよ」
それとはまた別腹だもん。ねだる水谷に、栄口はこのままじゃいつものあいつのペースに流されてしまうと感じる。
何か用事があるんじゃないかと聞くと、水谷は分が悪そうに「阿部が謝ってこいって」と答えた。
余計なことしやがって、栄口が声に出さずそう思っていると、水谷は頭を垂れて素直に謝った。ワイシャツの襟が首の後ろでねじれているのが見え、衝動的に直したいと思う気持ちを引っ込めた。
「だいいち水谷俺が何で怒ってるかわかってんの?」
「名簿に落書きしたこと?」
「違うよ」
「ええー、じゃあわかんない……」
「当たり前だろ俺もわかんないし」
栄口がコーヒー牛乳にストローを挿して一口飲み一息つくと、ようやく理解した水谷から、ええ!?という声が上がった。
「水谷さぁ、そういうの楽しいわけ?」
「そういうのって?」
「みんなによくわかんないイタズラすんの」
阿部が見せてくれた水谷の落書きは、わざわざノートの裏表紙に、しかも赤のボールペンでしてあった。いかにも思いつきで書いた感じの適当な絵の下にひらがなで「1年7組あべ☆たかや」とご丁寧に書いてあり、それを見せられた花井と栄口はまだ怒る阿部に悪いと思いながらもつい笑ってしまった。けれど栄口は、胸の中に余計なモヤがかかってしまったかのように感じた。
その理由が分からない。そして今、思い出してまた腹が立ってくる。
水谷は栄口の質問に答えずに、その手からコーヒー牛乳を奪って飲み始めた。
「へへ、間接キス〜」
本人としてははぐらかしているつもりなんだろうが、今の栄口にとっては非常に気分を悪くするものだった。
いい加減にしろよ、真面目に答えろよ、そんな言葉を飲み込んで、栄口は続けた。
「かまって欲しい気持ちはわかるけど、みんな迷惑してるって思わないの?」
「……」
へらへらとかわしていた水谷もさすがに黙り込んでしまった。
二人の間に漂う張り詰めた空気の間にポトリとバドミントンの羽根が落ちた。取ってくださーい。少し先からかかる声に、水谷はうなずきもせず羽根を拾った。無表情のまま大きく振りかぶり投げたそれは男子生徒の頭上を越え、対戦相手とを隔てる白線の少し手前で投げやりに落ちた。
水谷は羽根の行方など気にもせず、栄口の片方だけ出たワイシャツの白をじっと見つめている。
「栄口こそみんなにやさしくすんのやめろよな」
「は?」
「そ、そういうのって八方美人って言うんだぜ」
どもりながら喋る水谷の顔は、怒りだけではない、さまざまな感情が入り混じったよくわからない表情をしている。まさか水谷からそんな感情を吐き出されると思っていなかった栄口は少し面食らった後、「お前にそんなこと言われる筋合いなんてないし!」と言い返したら、カチンと来たのはお互い様だったらしい。栄口はこの間三橋に食いかけのパンやってたし阿部には同中だからか知らないけど、とぐちぐち語り出した水谷に、お前だって阿部のノートに落書きすんな!花井の眼鏡で遊ぶな!と栄口が言い返すというくだらない言い合いが始まった。
あの時ああした、あの時こうした、お互いの過去の出来事をぶつけ合い、そうして感情の高ぶりから若干涙目になった水谷が切り札のようにこう言い放った。
「栄口は俺にだけやさしくしてればいーんだって!」
なんだそりゃ。一瞬頭の中が真っ白になった栄口は、しかし何か反論しないと気がすまなかったので、前々から思っていたことを口にしてしまった。
「じゃあ水谷も俺にだけかまわれてろよ!」
かがんで何かを拾う、人の姿が視界に入りふと正気に戻る。
それはさっきからバドミントンの羽根を拾ってくれと言っていた男子生徒だった。遠目から言い争いをしているように見えた二人に気を使い、今度は打たれた羽根を自ら取りに来たのだろう。その姿勢のまま気まずそうに後ろへ下がっていく。
とりあえず水谷と栄口はそこでなんだか冷めてしまった。ついでに予鈴も鳴った。
「じ、じゃあそういうことでよろしくな!」
「お、おう。」
なにがよろしくなんだろう。喧嘩に一旦の幕を引いた栄口も、言われた水谷もそう思っていた。渡り廊下から教室へと急ぐ途中、最後のお互いのセリフをもう一度頭の中で再生してみる。
(もうわけわかんねー)