うしろの正面
#2
霊視の力を偶然知られた相手に、問われた事がある。
死後の世界を垣間見る事ができるなら、死ぬのが怖くなくなるんじゃないか、と。
──冗談じゃない。死ぬのは怖い。
確かに、多くの人間が死を恐れるのは、それが未知のものだからだ。その向こう側に何が待っているのか、あるいは何もないのかを知りえないからだ。
僕だって、そうだ。この眼で捉らえ、この鼻で嗅ぎ取ることが出来るのは、この世に滞留する霊魂だけ。何の未練もない魂が行く先など知るよしもないし、もしかしたら魂に行き場などないのかも知れない。
いずれにせよ、いつか自分にも死が訪い、肉体から抜け出た魂が、あの何とも言えない死臭を纏うようになるのかと思うと、おぞましさに肌が粟立つ。
まして大川に取り殺されるなど、許容できるわけがない。
あの怨霊は、僕の霊視の力、そして霊力そのものを欲して、僕の魂を取り込もうとしている。
だが、奴と一体になる気はない。
死霊達の臭いは不快で、その姿は直視したくないほどおどろおどろしいが、恐ろしげなのは見掛け騙しだ。
所詮は亡者。生きている人間の方が、強いに決まっている。
──そう、思いたい。
死者の臭いを感じ取る綾小路と、怪談の宝庫である鳴神学園との相性は最悪だった。試験日にはそのあまりの怨霊の数に面食い、合格しても辞退すべきかと本気で悩んだほどだ。それでも我慢して鳴神を選んだのは、通える範囲で吹奏楽部のある高校は鳴神学園ただ一校だけだったからだ。
そうまでして所属していた吹奏楽部も、大川の執拗な付き纏いに耐えられず辞めざるをえなくなった綾小路は、あの日以来、新聞部の部室で放課後を潰すことが多くなった。
何処でも死臭が漂う鳴神学園の中、唯一新聞部の空気だけが清浄で、大川も寄り付こうとしないからだ。それはまるで、何かに守られているような気配だった。
部外者にも関わらず部室に入り浸る綾小路を、坂上も朝比奈達も決して邪険にはしない。
それに甘えてばかりではよくないと思うのだが、あまりの居心地のよさについ足が向いてしまう。
今日も、そうだった。特に用があるわけでもないのに、あの空間のあたたかな雰囲気に浸りたくて、そして坂上と話がしたくて、綾小路は終業の鐘が鳴るや否や部室棟に直行した。
ところが、様子がおかしい。爽やかに澄んでいる筈の空気が、重く淀んでいる。濁った川の、汚泥が溜まった水底にいるよう。肺が、ヘドロに満たされていく。
それは、鼻につくより先に胸に迫るような不快な臭いだった。甘味を好む者には喉が鳴るような魅惑的な臭いなのかもしれないが、大鍋で大量の餡を煮詰めたようなそれは度を超えている。
綾小路は、胃からせりあがってくる吐き気を堪えて、それでも引き返しはしなかった。何故なら、明らかに新聞部の部室から漂ってくるそれは、死霊が放つ腐臭の一種であったから。
生きている者から生気を奪い、巧みに死へと誘う、甘美な誘惑。人に取り憑き、殺そうとする死霊が吐き出す、生ぬるく、官能的な吐息。
生前の恨みを晴らす為。
誰でもいいから道連れにする為。
理由は様々だが、いきつく先は同じだ。
甘い臭いは死ヘの招待。取り憑かれ、隙があれば、殺される。
綾小路は足を速めた。ほとんど駆けるようにして、部室へと急ぐ。
心安まる場所。何かに守られていた筈が、何故性質の悪い霊の侵入を許したのか。
暗い噂が絶えない綾小路を、快く受け入れてくれた人々。心から心配し、綾小路の愚痴も嫌がらず聞いてくれる坂上──彼らのうちの誰かが悪霊の餌食になることなど、あってはならない。
ノックすることも忘れて開けた扉の向こうには、煙草から立ち上る甘い紫煙のような不健康な香り。漂っていた白い靄は綾小路が現れた途端鼠色に、そして徐々に黒に変わる。
「お、今日も来たのか綾小路。お前、いっそ新聞部員にならないか?」
煤のように寄り付く煙に気付いていないのか、朝比奈はいつものように笑って片腕を上げた。
当たり前だ、彼に──普通の人間に、見えるわけがない。
「そうだな、考えておくよ」
嘔吐を堪えて作った笑顔は引きつる。
「こんにちは、綾小路さん」
原稿を書いていた手を止め、坂上が顔を上げた。へらっとした笑顔は、少し青ざめている。
「さかがみくん、」
応える声が震えた。坂上の肩に、一際濃い影が見える。
「どこか……具合いの悪いところはあるか? たとえば、肩とか」
「えっ、どうしてわかったんですか? 実は、昨日の夜から肩が重くて……疲れてるんでしょうか」
「ああ……憑かれてる、みたいだな」
坂上の溜息を聞きながら、その背後に視線が向いてしまう。部屋中に散在していた煙が、ゆっくりと坂上の後ろに寄り集まり、やがてそれは人の形を成した。
「──昨日、僕と別れたあと、何か変わったことは無かったか?」
「え?……いいえ、何も」
「そうか……」
原因を探る、その間にも、それは形を鮮明にしていき、見知らぬ男の姿を現す。
鳴神学園の制服、肩章が示す学年は── 一年。綾小路より少し低い頭の位置、それでも坂上より10センチ以上背が高く、長い腕が絡み付くように坂上の首に回される。
その事に焦燥と、酷い不快を覚えた。当の坂上は何も気付かない。
綾小路の敵意をこめた視線を受けた悪霊は、目を細め、口の端をつりあげて笑った。愉快そうに、嬉しそうに。
狂った、壊れた哄笑が、綾小路の鼓膜を叩く。
「うっ……」
「綾小路さんっ!?」
綾小路は耳を塞ぎ、うずくまった。
「……ここは……保健室?」
「綾小路さんっ!」
目を覚ますと、坂上が心配そうに顔を覗き込んでいた。その肩には相変わらず黒い影がまとわりついている。しかし、先程の悪霊の気配は無いようだった。
「急に倒れたんですって? また嫌な臭いでも嗅いだの?」
保健室の先生が、カーテンを引きながら苦笑する。綾小路は常連だ。彼女は気遣う素振りを見せながらも、少し呆れたような表情をしている。治療する立場の人間とはいえ、常人の感覚では、この苦しみはわかるまい。
窓の外は既に暗い。驚いて時計を見ると、倒れてから一時間以上経過していた。
「すまない、坂上君……ここへは誰が運んでくれたんだ?」
「それは、僕と部長で。部長は塾があるそうで、すぐに帰られたんですけど……」
「そうか、ありがとう。朝比奈にも礼を言っておいてくれ」
「はい。伝えておきます。……気分は、よくなりましたか?」
まるで自分のことのように消沈した表情の坂上。真面目で、少し気弱で、だが人の気持ちを尊重する、本当にいい子だと綾小路は思う。
「ああ、もう嫌な臭いはしないから。ついていてくれてありがとう」
礼を言えば「よかった」と彼ははにかむ、だからこそ、話せない。君は悪霊に取り憑かれている──などとは。
坂上を徒に不安にさせたくないし、そもそも信じてもらえないかもしれない。
たとえば朝比奈も、霊が視えるという綾小路の言葉に疑問をぶつけたりはしなかったが、内心はどうだろうか。