日坂短編集
Domestic Madness
いつのまにかカーテンを引き開けられていた窓から、朝の白い光が差し込んでいる。
眠りながらずっと感じていたぬくもりは消え、部屋の中にもその気配は無かった。
乱れたシーツの皴を伸ばし、軽くブランケットを整えると、鈍く痛む腰を上げる。
もう何度往復したかわからない通路をのろのろと歩き、まっすぐにバスルームへ。
脱げかかっているシャツを洗濯機に放り込んで、熱いシャワーで昨夜の名残を洗い流した。
他人の体液を受け入れたその場所の手入れには、もう慣れてしまった。
はじめの頃は何もわからなくて、吐き出した張本人に掻き出してもらっていたのに──と自嘲する。
用意されていた柔らかなタオルで濡れた身体を包み、そのままリビングへ向かえば、日野先輩は広げた新聞をたたむところだった。
「おはよう、坂上」
「おはようございます……」
「メシはもう出来てるから。トーストは自分で焼けよ」
モーニングコーヒーならぬおしるこドリンクを啜りながら日野先輩が指し示した食卓には、一人分の目玉焼きとサラダとスープが並んでいた。
先輩との奇妙な生活が始まって、早一ヶ月が経つ。
あの日、僕は放課後に先輩の家に招かれ、そのまま軟禁されてしまった。
以来、僕は一日中、日野先輩の家で過ごしている。
朝は学校に行く日野先輩を見送り、昼間は日野先輩が用意した本を読んだり、CDを聞いたりして、お腹が空いたら家にあるものを食べて、日野先輩が帰って来る夕方までの時間をひとりぼっちで潰す。
日野先輩の話では、僕は行方不明ということになっているらしい。
最初は抵抗していたけど、次第に億劫になって、今では手枷足枷を外されても、逃げる気力さえ起こらない。
ご両親は、と尋ねれば、随分前に事故に見せかけて殺した、と何でもないことのように笑っていた。
「それじゃ、俺は学校に行ってくる」
「はい。行ってらっしゃい」
「……」
不意に、先輩の顔が近づいて来て、重なる唇。
ぎゅっと瞼を閉じて、その数秒を耐える。
……いつものことだ。
玄関の向こうに消えていく背中に手を振り、内鍵を掛けてリビングに戻った。
ピンポーン……
午後四時を過ぎた頃、来客を告げる音が響いた。
今まで、ひとりでいる時に誰かが訪ねてきた事は一度もなかったのに。
──これは、チャンスかもしれない。
勇気を振り絞って、僕はドアを開けた。
「あっ……」
そこに立っていたのは、新堂さんだった。
「坂上……?お前──」
新堂さんは目をみはって、しばらく何か言いたげにしていたけど、やがて諦めたように目を逸らした。
「そうか……そういう事かよ」
憎々しげにそう呟いて、僕を睨む。
「逃げるぞ、坂上」
「えっ……」
日野先輩が買ってくれた明るいチェックのシャツの上から、強く腕を掴まれる。
その痛みに驚いて少し身を引くと、新堂さんはもどかしそうに舌打ちした。
「一生ここで飼い馴らされてるつもりなのかよ!?」
その言葉は、僕の心臓をひどく揺さ振る。
「お前、このままじゃダメになっ……」
「そこまでだ、新堂」
銀色に光るナイフが、新堂さんの頬にひたりと押し付けられる。
新堂さんは動きを止めて、目線だけをゆっくりと背後に向けた。
「ひ、日野……っ」
茜色の斜陽を遮るようにして玄関に滑り込んだ日野先輩は、後ろ手にドアを閉めると、そのまま勢いよく新堂さんの喉元を切り裂いた。
小綺麗だった玄関に、赤い赤い池が出来る。
日野先輩はナイフを投げ捨てて、座り込んだ僕を抱擁した。
「坂上」
甘い声が耳を擽り、優しい手が髪を撫でつける。
わけもわからず零れる涙を、その指が掬いとっていく。
「お前はずっと此処にいるだろ?」
口元に浮かぶ微笑みに、眼鏡の奥の柔らかな眼差しに、ただ見とれてしまう。
やっぱりこの人は綺麗だと、
──思ってしまう。
そして今夜も僕は自ら選んで此処に留まり、縋り付いてくる先輩を抱きしめる。
歪んだ正義に支配されたこの世界で、この人をひとりぼっちにしないために。