日坂短編集
Perfect World
目が覚めると、妙に静かだった。
鳥のさえずりさえ聞こえない、その静謐がかえって耳障りで、
──胸が、騒いだ。
カーテンの隙間から洩れる朝の光が、冷えた頬を撫でる。枕元の目覚まし時計は、三時三十三分を示して止まっていた。
今は一体、何時なのか。外の明るさから考えれば、大体七時頃ではないだろうか。
いつもなら、家の前を車や自転車が通り過ぎていく音が聞こえてくる筈なのに。
そろそろ母さんが、僕を起こしにやってくる筈なのに。
何の音も、しないなんて。
(おかしい)
ドクッ……
(こんなの、)
ドクン……
(絶対おかしい!)
勢いよくドアを開ける。これまでにないくらいの激しさで、ドアノブが壁に跳ねかえり悲鳴を上げた。その残響が止めば、自分の鼓動だけが耳元に響くようだ。
制服に着替えるのも顔を洗うのも、一切を後回しにして、僕は家族が集うダイニングへと駆けていく。
扉の前で一瞬躊躇い、全身が強張ったままでノブを捻る。
(おはよう、修一)
(冷めないうちに食べなさい)
現実は、頭の中で再生される記憶と重ならない。
白いテーブルクロスを鮮やかに染め上げて、滴り落ちる紅。
広げた新聞紙の上に突っ伏した背中。
「と……」
──父さん。
唇はわななき、喉はひきつる。声になりそびれた細い吐息が、ひゅっ、と吐き出されていく。
僕の首はロボットのようにぎしぎし軋みながら、ゆっくりと横に向けられた。床に落とした視線の先に捉らえたのは、母さんの足下。そして、
──ごろんと転がった、首。
真っ赤な真っ赤な池に泳ぐ、長い髪。
「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ──!!」
堰を切ったように溢れ出した悲鳴が、家中に反響してわんわんと鼓膜を揺らす。
腰が抜けて、支えを求めて掴んだ椅子を倒し、膝を引き摺って這うようにして、僕は玄関に向かった。
そこにも、小さな血溜まりができていた。
「あ、あ、……アァッ……」
じんわりと滲む視界の中に転がる、犬の、亡骸。
「ポヘッ……ぽへぇ……っ」
まだほんのりあたたかい身体を抱き上げて、腕の中に閉じ込める。
涙は顎の先に垂れ落ち、パジャマの襟元まで濡らしてしまった。
もう、なにもわからない。
どうして、こんなことになったんだ?
ポヘの遺骸を腕に抱いたまま、靴を引っ掛けて外に出る。朝日は柔らかく包んでくれるのに、そこも安全地帯じゃなかった。
バ ラ バ ラ に切断された四肢や、
ぐ ち ゃ ぐ ち ゃ に潰れた内臓、
皮 を 剥 が さ れ た 頭部が、
赤 黒 く 塗 装 さ れ た アスファルトの上に、いくつも 散 乱 している。
視覚的な不快感よりも、直接鼻腔に訴えかける酷い臭いに嘔吐を誘われて、僕はうずくまり胃液を吐き散らした。
口の中に酸っぱい苦みが広がり、慟哭したくなる。
実際、大声で泣けたらどんなに楽だろう──。
僕はよろめきつつも立ち上がり、ポヘを抱え直して、赤い水たまりを避けながら歩き出した。パジャマのままだなんて気にする余裕もなく、ただ前へ、前へと、足を運んでいく。
屍の道は、何処までも続いていた。
人間も、犬猫も、雀や鳩も、生前の形を留めぬほど壊されて、ただの肉塊へと変じていた。
乾いた空気に、白い息が流れる。
生き物の気配がしない。
止まった世界で、僕だけが呼吸している。
独りぼっちで取り残されたのだとは思いたくない気持ちが、僕を無意識に鳴神学園へと向かわせた。
──人が沢山いる筈の、広い学び舎。
けれどそこにも、無数の死が横たわっていた。
通学路や校門、グラウンドや玄関にいたるまで、制服を着た男女がマネキンのようにバラバラになって打ち捨てられている。
五感はだんだん麻痺してきた感覚でそれを捉らえ、ぼんやりと知覚する。
身体は鉛のように重く、歩くことすら億劫に思えてきた。
トイレのドアに背もたれている、あれは細田さんの胴体。
体育館のバスケットボールの籠に紛れている、あれは新堂さんの頭。
掲示板に釘打たれ晒されている、あれはきっと風間さんだろう。
赤いプールに浮かんでいた水死体は福沢さんに違いないし、
美術室の描きかけのキャンバスに派手に血痕を飛ばしていたのは岩下さんだ。切れているのに胴体に乗ったままの首から流れる血で制服が真っ赤になっても、彼女は相変わらず綺麗だった。
荒井さんの身体は屋上のフェンスに干され、その頭部は給水タンクの中に沈んで白くなっていた。
元木さんは保健室の赤いベッドで、お姫様のように眠っていた。くちづけたら起き出しそうなほど穏やかな顔だった。
綾小路さんは図書室の書架に、ハードカバーの厚さにスライスされておさまっていた。他の死体は五体満足だったから、それとわかる。彼の首だけはカウンターの上にあって、マスクを剥ぎ取られていた。
僕でさえ顔を顰めたくなる悪臭の中で無防備にさらされている呼吸器があまりにも可哀想で、僕は思わず傍に横たわっていた死体からハンカチを拝借し、嫌な臭いがしないか確かめてから、彼の口元をそれで覆った。
部室棟の廊下には、死体を引き摺ったような跡しかなかった。
新聞部のテーブルの周りには、まるで食卓を囲むように部員達の胴体が座っていた。皿に盛られているのは彼ら自身の首で、割られた頭から脳が剥き出しになっていた。
──その中に君がいても、
もう涙も出ないんだ、
……倉田さん。
(一人、足りない)
彼は、何処で亡くなっているのだろう。
ただ見届けるために、再び歩き出す。
三年F組や他の教室も探してみたけれどみつからない。
腕の中のポヘは、もうすっかり冷たくなっていた。
窓の外に、取壊し工事が中断したまま放置されている旧校舎が見える。その三階の窓辺で、何かが動いた気がした。
(!?)
一体、何だろう。
僕はポヘを落とさないように注意しながら、旧校舎へと急いだ。
「坂上」
──心臓が、止まるかと思った。
旧校舎の中ではなく、脇の楠の下に佇んでいた彼は、此処まで辿り着いた僕を労うように微笑んだ。
「日野、先輩……っ」
鳴咽のような自分の声が、骨を伝って鼓膜に響いた。悲しみは涸れていたのに、安堵が涙腺を緩ませた。
「先輩っ!」
駆け寄った僕の腕の中を覗き、日野先輩は何も言わずに笑みを深める。
「やっと、生きてる人に会えた……っ!」
先輩の大きな手が、縋りつく僕の頭を優しく撫でた。何度も何度も、髪を梳かすように。
ふと思う。
どうしてこの人は、生きているんだろう。
どうして怪我ひとつしていないのに、制服に血がたくさんついているんだろう。
「泣かなくていい。お前を脅かすものは、俺が全部消したから」
──ああ、そうか。
腕から滑り落ちたポヘが地面に叩きつけられて鈍い音を立てる。
冬の晴天は清浄な蒼さで大地を見下ろしている。