彗クロ 2
2-6
ルーク・フォン・ファブレ。
キムラスカの生ける奇跡――栄誉ある救世の英雄にはあるまじき仏頂面にありありと浮かぶ見るに耐えない稚気を、ナタリアは水底を見透かすように見つめた。きっと自分も、さして大差のない、恨みがましげな顔をしていることだろうと思う。
「……最近の郵便は、ずいぶん便利になったものです」
抑えた声音を絞り出しながら、執務卓を挟んだ対岸に立つ許婚にも差出人の名がしかと見てとれるよう、数刻前に封蝋を切った手紙を押し出すように卓の隅へと滑らせる。
たちまちルークの眉間の皺が深くなった。内容には目星がついているのだろう。忌々しげに歪む表情に舌打ちが付随しなかったのは、彼なりの成長の痕跡なのかもしれない。
ナタリアは小さく、通過儀礼としての失望の嘆息を落とした。本心はより深く重く複雑だが、いま彼の目の前にいるのはナタリア・ルツ・キムラスカ・ランバルディア。いずれ王位に就く宿命を課せられている女が、その伴侶として隣に据えるべき男に対して、恋情を慈悲にすり替え手抜かりすることは決してまかりならない。……そのように割り切れてしまう程度には、彼女の立場も、彼を取り巻く環境も、二人の関係も、以前のそれとは大きく変わってしまっていた。
かつて時の権力者に間諜を命じられた人形士の少女の術を応用したという苦い来歴はともかく、昨今普及しつつある紙鳥による速達は、いかなる郵便手段よりも正確かつ迅速だ。世界最速と謳われる航空音機関アルビオールを軽々追い越して、未明のうちに隣国の将軍による事細かな経過報告と念入りな諫言とが、ナタリアの手元に届けられていた。
曰く、「二度と失うことを恐れるならば、感情に任せた行動はゆめゆめ慎まれますよう」
客観的事実と冷静沈着な考察とを淡々と綴りつけられた文面において、その一文にのみ、筆者の明確な感情が浮き彫りになっている。
ナタリアがそこに思い浮かべるのは、三年前の自分自身だ。
取り返しをつかない大罪を犯した人間を前に、ナタリアはひたすらまっすぐに嫌悪をぶつけた。ジェイドはかつての自分の罪業を映して己自身をこそ唾棄した。
……今は互いの態度が綺麗に逆転してしまっていることを、ナタリアは強烈に意識する。罪の重さを比べるすべはないが、胸を塞ぐ苦しさだけは、きっと平等だった。
そう。英雄と名指されるこの男は、極めて高い確率で、取り返しのつかない罪を犯したのだ。
決して世間に表沙汰にはならない罪だ。無辜なる多くの人々にとってそれは罪ですらないかもしれない。しかし、痛い腹を抱えたまま新時代に生き長らえた特定の人物たちに筆舌に尽くしがたい失望が喚起されたことも、また事実だ。
その心証においては、おそらくアクゼリュス崩落と同等か、あるいはそれ以上……。
罪の指し示す先に、燃え滓、かつてそう名乗らざるを得なかった男がいる。
豊かに額を隠していた前髪は、今は後方へ乱雑に撫でつけられている。おかげで、ただでさえ始終不機嫌に見える顔立ちが、眉間の皺も露わに余計な険を帯びて、見る者に刺々しい印象を振りまいてはばからない。昨日城を出立するまでは丁寧に櫛を通されていたはずなのに、これはどうしたことか。まるで、三年前に時を巻き戻そうとあがいてでもいるように。
どんなに体裁を取り繕っても、時間は元には戻せない。自身の不幸を免罪符に己の罪から目を逸らす時代はもう終わった。終わりにした、はずなのだ、お互いに。
けれどルークは、手紙を手に取ろうともしなかった。
ナタリアも無理に内容を確認させる気はなかった。ただ、深々と皺の刻まれた眉間を直視して、滑舌鋭く言った。
「ここには、わたくしの口から問い質せる罪状は存在しません。貴方の為された事柄について逐一真偽を詳らかにすることは、わたくしの役目ではありません。……わたくしが質さねばならない真偽があるとすれば、それはただひとつ」
ナタリアはひとたび言葉を切り、気づかれぬように浅く、肺に酸素を取り入れた。
……ふとしたところで、つまずきそうになる。不安と恐怖と期待のないまぜになった塊が気道に引っかかって、吐き出すべき問いかけをせき止めようとしている。
乗り越えなくてはならない。立ち止まることは、赦されていない。
互いの傷を広げてでも。
……あるいはもう、傷つけあうことでしか、互いの関係と、精神の均衡を保てないのかもしれないのだから。
「意中の方には、お会いできまして?」
気道のつかえをどうにか抜けてしまえば、あっけなくまろび落ちた。意図した覚えのない皮肉が語尾を彩り、ナタリアは自分自身の苛立ちを自覚する。
かつて犯した贖うべき罪に対して、三年越しに与えられるはずだった罰を、この男は、ふいにした上に罪を上塗りしてきた目算が高いのだ。その一点において、おそらくナタリアには怒りをぶつけてしかるべき正当な権利がある。
それでもなお、ナタリアにはこの男を糾弾することができない。ランバルディア王室に迎えられ歩んできた二十一年間にかけて、ただのメリルが王女ナタリアであり続けるためには、ルーク・フォン・ファブレを否定することだけは、決して叶わない。ジレンマであり、アイデンティティであった。
ルークはナタリアを見ない。暗い視線を低い位置にさまよわせ、ついには完全にそっぽを向いてしまった。
「……完全同位体だ。間違いなく、俺のレプリカだった。……あんなものが二人もいてたまるか」
告解にしても無様なものだった。罪人も、急ごしらえの教誨師も。
サバトの煮鍋のごとくとぐろ巻く胸中を見下ろすように瞼を引き下ろし、ナタリアは今度こそ本心からのため息を落とした。もはやまともに思考を回す気力さえ、なかった。
「……この件、叔父様と叔母様には仰っていませんわね?」
「……ぬか喜びさせるわけにはいかねぇからな」
「そう」
かろうじて、その程度の分別はあったわけだ。これを救いと見なすか、焼け石に水と切り捨てるべきものか。だが少なくとも、彼の父母の心理的負担を考慮に入れずに済むのなら、願ってもないことだ。
三年前の喪失、そして一年前の僥倖に寄り添っていた底の見えない失望を、再び彼らに強いるには、あまりに忍びない。
ひとまず心を整え、ナタリアは目を上げた。
「ファブレ子爵に謹慎を申し付けます。しばし登城を控え、ゆっくりと静養なさい」
「……」
恨みがましげな視線が返る。……何かを問われれば逃げるくせに、我を主張する時ばかりは雄弁な目だ。
「お屋敷から一歩も出るな、と言っているのではありませんわ。ですが、自重はしていただきます。常に所在を明らかにし、通達があるまでは決してバチカルを出ることはまかりなりません。……今回の一件については、わたくしから陛下に報告申し上げておきます」
記憶の中にいる初恋の人は、不器用な仏頂面にかすかな苦衷をよぎらせ、ぶっきらぼうにナタリアを慮る言葉を返してくる。
現実の、いま目前に立つルーク・フォン・ファブレは、渋面もそのまま、忌々しげに両眼を眇め、心臓を直接攻撃するような舌打ちをひとつ、「……拝命つかまつった」心ない皮肉を吐き捨て、あっけなく踵を返して退室していった。
……こんなにも変わってしまったのか。