彗クロ 2
何百何千何万と束で数えられ、ひとくくりの事象として史書や惑星預言の一文に添えられるだけのそれらが、自分自身となんら変哲のない命であると知った時。無味乾燥な数字の向こうに、その数だけの人生と、家族と、人の想いがあるのだという実感を手にした瞬間。正論と自愛の矛を振りかざして、自分が誰の、何の盾をいかに無残に傷つけていたかを知る刹那。
ただ「子供」と呼ばれていた生き物は、それでようやく「人間」になる。それらを理解しないまま「大人」なんて呼ばれるようになる人間はある意味不幸だ。あの女なら、博士んとこのソファに寝っころがりながらこう言うかな、「ああなんと不幸な人間の多いことやら。いっそまとめて音素に還ればいいのに」。……理想を壊したようで悪いが、溜まってんだあいつも。
とまあ……なんというか、うまく言えないんだが。要は『そういうもの』なんだと思うぜ? 貴様らが知りたがっている人間なんてものは。
なあ、聞こえているか、大いなる闇の眷属よ――」
***
兆候は外部からも見て取れた。
音素の変調を察知して、ルークが息を呑んだ。
大穴に向けてほとんどつんのめっているルークの身体を、背後から抱き支えるように引き止めていたアゲイトは、モノクルの下の左目を苦痛の形に細めた。
「――〈第一集合意識体(シャドウ)〉……?」
瞬間、暴風が吹き荒れた。
凝集し実体を帯びた闇の音素が、大穴より立ち昇り逆巻いた。漆黒の竜巻が、巨大な柱のように二人の眼前に聳え立つ。不安定な姿勢のルークはあっけなく風に攫われかけ、アゲイトに両肩を抱き支えられながら、水辺の木っ端のように頼りなく足を泳がせた。
局地的な嵐はほんの数秒で力を失った。闇の渦は密度を薄め、螺旋状にほどけながら下方へと収束していく。その一部始終を、アゲイトは左目で見届けた。
大穴の内部は劇的に形を変えていた。
断崖を思わせた極端な内壁は、今はなだらかなカーブを描いていて、奈落かと思われていた穴の底がすっかり白日に晒されている。中途にたゆたっていた流体状の第一音素は、影も形も見当たらない。
深皿の底辺は日差しを受けて、全体的にトゲトゲとした細かな陰影を浮かび上がらせており、中央にいくほど密になる。完全な中心部よりやや手前には、見覚えのある派手な金髪がトゲトゲに埋もれるようにして横たわっていた。
「――レグル!!」
ルークがアゲイトの腕を振り払い、後先考えずに飛び出した。緩やかに変化した斜面を、靴底の摩擦を使いながらうまいこと滑り降りていく。坂の終盤にもなると加速を利用して一直線、弾丸のように目的物へと駆けていってしまう。
こけつまろびつわき目も振らぬ小さな背中。それを追って同様に坂を下りながら、アゲイトは周辺を広く観察し続けた。
目に見える音素の流動は沈静してはいるが、ほんのかすかに、五感の外側で蠢く感触がある。それらは音もなく地を走り、中心部へと集束を始めている――
くしゃり。予想だにしなかった感触が靴底より伝わり、アゲイトは視線を落とした。
無意識に踏みつけたのは、黒いセレニア。
一面に横たわる、供花の屍骸。
上部より見下ろして見えた微細な陰影の、それが正体だった。
すべてが切り花だった。うつろの縁に供えられ、想いの代わりに闇を吸い、清廉さを失ったと見られれば底の見えぬ深淵へと投げ捨てられた。その総数は、犠牲者の数を倍加させてなお上回る。
「穴の底には何もない」……それがマルクトの公式な見解だった。内側に湾曲して見えるのは一種の錯覚であり、あの内壁は地核に対してほぼ垂直な絶壁なのだと言われていた。音素は、地下深く、かつて魔界(クリフォト)の海であったマントルより染み出し、まっすぐに地層を削って地殻を貫通したのだ。
奇しくもこの場所は、かつてセフィロトが存在した惑星のツボ。あたかも新たなプラネットストームの発生を予期させたその欠落は、しかし結局、失われた大陸を複製したのち、分厚くわだかまる第一音素の層に蓋をされる形で長く沈黙を維持していた。
この穴に何を放り入れたところで、高濃度の第一音素に曝され、物体は音素単位に分解され、底にたどり着くことさえ叶わないだろう――それが調査団の出した結論のはずだった。
だが、今黒き皿の底を埋め尽くす全ての花は、一輪とてしおれていない。水を蓄える土もなく、陽光も月光も届かない底なしの闇の中で、それらはきっと花弁のひとひらさえ分解されずに、むしろ音素によって守られ保存されていたのだろう。
在りし日の姿のまま。そこに籠められた想いを、誰が忘れ果てようとも。
中心に集積していく音素は、見る間にうずたかいオブジェを形成していく。
まるで、巨大な墓標だ。
アゲイトはただ静かに、色の薄い両眼で、黒き塔の完成を見守った。
***
遥か彼方からメティが呼んでいる。そんな気がした。
けれどそこにはメティなどいるはずもなく、心配そうに覗き込んでくるのは、九十度ズレた鏡だった。
「……レグル」
レグルを苦しみからすくい上げるのは、いつだってルークだけだ。
仰向けになった視線の真上に緑色の真摯な瞳。あとはすべておぼろげだった。狭い視界に違和感を覚えて首を転がすと、鼻先を真っ黒な花弁がかすめた。
唐突な風に、無数の黒い花びらが舞い上がる。
見渡す限りの、黒い絨毯。
セレニアの死体捨て場。
そして、少し遠くに、空を真っ二つに区切る黒い塔。
円柱が空へまっすぐ伸びて、途中で二股に分かれて左右対称の曲線を描き、それぞれがまた空を目指す――直線とU字を組み合わせたそれは、どこかで見た形と同じ。
白日に現れたセフィロトの幻影より、もっとずっと巨大な、天突く漆黒の音叉だった。