彗クロ 2
2-5
デオ峠はごくありふれた山道だった。本格的な登山は事実上初体験であるレグルも、物珍しげにしていたのは初めのうちだけで、すぐに飽きてしまった。山を侮るなとはよくよく耳にする文句だが、もとよりさしたる標高にもないなだらかな岩山が登山者のために過剰なまでに削り出され整地されている様を見れば、緊張感の持ちようもない。
中腹付近の山道を行きながら、半歩先を進んでいたルークも、どこか腑に落ちないようにぼんやりと首を傾けた。
「なんか、ずいぶん整備されてる……な……」
「昔は違ったのか?」
「うん。全然別の山って感じ……もともとあんまり使われてない道だって話だった……し」
ぼそぼそと呟いてから、ルークははたと足を止め、レグルを振り返った。
「そういうのは、覚えてないんだ?」
唐突にして意味不明だ。レグルは退屈まぎれに後頭部を両手で支えた姿勢のまま、眉間にしわを寄せた。
「覚えてるもなにも、おれ、山なんか登ったことねーよ」
「……ああ、うん、そっか」
「大丈夫かよルーク? たまにそうやってぼやーってなってっけど」
「うん……寝起きみたいなもん、だから。まだ少し、記憶の整理が」
言いさしたルークの言葉は宙ぶらりんに着地点を見失った。見る者を不安にさせる茫洋とした碧眼が、劇的に姿を変えて鋭く前方へと流される。不穏な鍔鳴りがきりりと空気を引き絞る。
「どうかし――」
訝るレグルの呼びかけは半ばでルークの手に制される。左手は隙なく白い柄に置かれている。
ルークの右腰に佩かれた脇差は、二剣の片割れ。柄から鞘のてっぺんまで真っ白、その内に納められている刃は、極限まで鍛え上げられた銀色。全部を黒で統一されたレグルのものと並べてみれば、なるほど趣味の世界に相違なかった。
張り詰めた静寂は、一瞬にして鞘より閃き出でた銀の剣閃に両断された。
瞬間、噴き出した赤は、獣の鮮血だった。あのクソな被験者の恵まれた境涯を誇示するためのあの忌まわしい色。すれ違いざま一太刀を叩き込まれ崖下へと転落していく狼をなすすべなく見送りながら、レグルは胃酸が逆流するのを感じた。
「レグル!」
別人かと思うようなルークの叱咤に、レグルははっと身をこわばらせた。奇襲してきた一匹は群れの尖兵に過ぎない。複数の殺気が山肌を駆け下り向かい来る。
エントウルフ。赤みがかった灰色の毛皮を持つ狼族。
ウルフの仲間はチーグルを食う。徒党を組んで人を襲うこともある。日常の条件反射で、レグルはとっさに利き手で柄をとった。慣れないながらに勢い任せに鯉口を切り――鞘を刃が滑る生々しい感触に、引き抜く半ばでぎくりと動きを止めた。致命的な隙だった。
「――危ないっ!」
ルークが叫んだ。しかしレグルは、エントウルフの群れを鮮やかにいなすルークの体捌きと白き刀身が次々生み出す鮮烈な赤に魅せられて、反応が遅れてしまった。気づいたときには灰色の獣が乾いた山道を蹴立てて跳躍していた。目の前で顎(あぎと)が開かれ、ずらり並んだ鋭い凶器が奥の奥まで覗けた。
標的は、レグルの首だ。
「うわああああああっ!!」
悲鳴を上げた事実に屈辱を感じている余裕はない。恐怖に振り上げた腕に鋭い牙が食い込む。白い犬歯が肉を裂き痛覚をじかに刺激する。神経が焼き切れるかという激痛に脳裏が真っ白に塗り潰され――
「……えっ」
間の抜けた自分自身の呟きに、レグルは我に返った。いつの間にか尻餅をついた体勢のまま、強烈な光を直視したせいでちかちかする目を忙しなく瞬く。……視神経に焼き付いているのは、物理的な光の残像だ。
呆然と見やる先で、地面に惨めに打ち捨てられたウルフに、出し抜けに白刃が突き立てられた。レグルの血で牙を濡らしたウルフは、びくりと一度身体を痙攣させると、力を失い、二度と動くことはなかった。
目の前で命の灯火が消えてゆくのを呆然と見取って、レグルはそろそろと白刃を視線でたどった。おろしたての刃はその光沢だけで無類の切れ味を予感させ、刀身に付着した血液は銀の表面に馴染むことなく玉を結び、下へ下へと流れ落ちていく。蠱惑的でさえあるその情景に釘付けになりそうな目線をなんとか引き剥がし、レグルは上へと目を上げた。
いまだ東方でもたもたしている太陽を背にして、人影が逆光に浮かび上がる。
白い柄に全体重を預け、ルークは肩で息をしていた。避けきれなかった赤い細かな飛沫痕と死闘の名残も露わな熱い吐息が、レグルを助力する余裕がなかったことを如実に語っていた。
「だいじょうぶ、レグル」
「お……おお……」
いやに舌ったらずな呼びかけが、目の前の凄惨な構図とあいまって、かえって壮絶な迫力を帯びて感じさせる。
レグルはなんとなく圧倒されながらも、それ以上に深い安堵が腑に転がり落ちるのを意識した。と同時に、忘れていた右腕の傷がたちまち重い鈍痛にうずき始めた。血まみれの傷口は、見た目や痛みほど大袈裟な怪我ではなさそうだったが、放置できるほど軽くもなかった。
ルークは死体から抜き取った刀を一振りして血液を振り払い、手際よく腰の鞘に収めると、水筒を取り出しながらレグルの傍らに膝をついた。傷ついた腕を取り、流れ出る血を水でためらいなくすすぎ始めた。痛いわ染みるわで、下手をすると噛まれた瞬間の方がよっぽどマシだったんじゃないかというくらいの強烈な刺激を、しかしレグルは涙目になりつつも唇を噛み締めて耐え抜いた。
「これは派手にやられたね」
出し抜けに、頭上背後より第三者の声が降りかかり、レグルは目を剥いた。嫌味のない、能天気だが芯は誠実な声音には聞き覚えがあった。
「てめっ、なん――でででででッ」
「ああほら、無理しない無理しない。傷が広がるよ?」
果たして背後に立っていたのは、色ガラスが胡散臭い片眼鏡の薬売りであった。
薬売りは似合いもしないカーキ色のコートの下に手を差し入れ、懐からおむもろに装飾銃を取り出すと、流れるようなすばらしい手際でレグルの傷口めがけてトリガーを引き絞った。色のない音素がはじけて、傷口を透明な力場が包み込んだ。初めに出血が止まり、次に痛みが退き、最後には痕跡ごとあっけなく消えていく。
空気中の微細物との音素反応によるあえかな緑光を振りまきながら、力場は収束した。残された利き腕は、生まれたての赤ん坊のような汚れひとつないつるりとみずみずしい素肌。……相変わらず、憎たらしいほど見事な譜術だ。
ルークがうっそりと立ち上がり、薬売りに向けて丁寧に頭を下げた。
「……助けてくれて、ありがとう……ござい、ました」
ここでようやくレグルも悟った。跳躍したウルフを撃ちすえた光。あれはこの男の放った音素弾だったのだ。
影でルークにつっつかれて、レグルは顔を歪めながら、男を見ないように「……悪りかったな」などとつんけんと礼を言った。昨日の別れ際、貸し借りなしだと押し切って礼を怠っただけに、ばつが悪いといったらない。
「……つか、なんでここにいんだよ! つけてきたのか!?」
「尾ける?」
立ち上がって改めて向かい合っても到底及ばぬ遥か上方で、銀髪の青年はいやに色素の薄い瞳を不思議そうに瞬かせた。
「後を尾けられるような心当たりがあるのかい?」
「っ、いやっ、それは……っ」