依傷
ものの20秒くらいは鳴っていたが、出られずに見つめていると着信が途絶えた。向こうが諦めたらしい。
一歩先が見えない真っ暗な道を歩いているようで、心細くなり苦しむ臨也を覗きこんだ。出来る事は尽くしたつもりだった。何処までも何もかも臨也を頼っている自分に気付かない俺は、そっと臨也の唇に自分のものをくっつける。それで治るとは流石に思わなかったが、自分がされて嬉しい事は臨也にも効くかもしれないと思ったからだ。
そうこうしていると再びバイブが鳴った。今度は短い。画面を開くと、メールだった。相変わらず決定ボタンの嵐を起こす俺に携帯は素直に本文を開いてくれた。
『静雄かい? 電話に出られないのかな、臨也はどうしているんだい?』
ある程度メールの仕方を覚えた俺はすぐに返信を打ち込む。濁点に妨害を受けながらも、似たような意味の言葉を必死で探し、送信した。
『ねてるつらそうおきないたすけてしんら』
新羅の何倍も時間をかけたそれに、新羅は事情を察してくれたのか、それきり返信が来なかった。
携帯を握りしめながら、臨也の腕に抱きつく。役立たずにも程がある自分を怨む事も出来ずに、只管新羅を待った。眼の前の男が目を覚まさない今、孤独になった気がしてそれだけで世界は真っ暗だ。明日死ぬかもなんて考え始めた俺の思考を、場違いなくらい明るいインターホンが掻き乱した。
「新羅!」
急いでセキュリティを解除し、エントランスに映る白衣の男の姿に胸を撫で下ろす。待ち切れなくて扉を開けて待っていると、俺の心境を理解したのか少し早足で近付いてきた。
「やあ久しぶり、静雄くん。君の飼い主はどうしてるの?」
厭味でも揶揄でもなく俺はきっと臨也に飼われている。と、今はどうでもいいそれに大して関心は寄せずに、新羅の手を引っ張って寝室に案内する。
寝ている臨也を、眼鏡をかけ直しながら眺める新羅をどきどきしながら見つめていると、持ってきた医療道具を脇に置いて屈み込んだ。
「うーん、これは見事な風邪だね。慮外千万! 臨也が此処まで弱る姿を見るのはどうだろう、中学の時にインフルエンザの状態で体育倉庫に、」
「治るのか?」
新羅が高々と喋っているのを遮断し、俺は後ろから話しかける。新羅は振り向いて「勿論治るよ」と当たり前の事を言うように宣言する。
「専門じゃないからはっきりとした事は言えないけどね。多分日頃の不摂生とか不規則な生活が悪かったんじゃない? 君がぴんぴんしてるんだから。ところで静雄くん、この機会に是非とも君の妖異幻怪な身体を解剖させて貰いたいんだけど! 正直それ目当てで此処に来たと言っても過言ではないよ!」
「早く臨也を、治してくれ!」
熱を込めた俺の言葉に、新羅は不思議そうな顔をして口を閉じた。会う度に解剖解剖と言っていたから特別珍しくもない。今まで丁重に断っていたが、臨也が死んでしまうかもと思っていた俺は涙目になりながら告げる。
「そうしたら、ちょっとくらいなら、しても良い」
「ホント!?」
眼を爛々と輝かせる新羅にほんの少しだけ後悔したが、それなら話は早い! と上機嫌になった新羅が鞄を漁り始めたのを見てまあ良いかと考えた。だがすぐにその考えが打ち砕かれる。
「あ、薬忘れた」
「……」
「いやあ君の未知の身体にメスを入れられると考えたら、セルティが引きとめるのも程々に僕は此処まで来てしまったからね! うん、悪いんだけど薬買ってきてくれない? 市販ので良いから。臨也の事だからこの家に薬なんて無いんだろう?」
え、と口を半分開いた俺を余所に新羅は財布から千円札を取り出した。買ってきて、って、俺に?
差し出されるままに受け取ってしまった俺は茫然と二人を眺めていたが、専門でもないのに聴診器を当て始めた新羅の背が早く行けと言っているように見えて俺はそそくさと着替えに行った。
一人で外に出る、俺が? そう思うと奇妙な昂ぶりを感じた。今まで必要無かったから俺は外に出ず、不健康な引きこもり生活を送っていた。だが今回は臨也の為という立派な理由がある。俺を支配したのは、見知らぬ土地へ遠足へ行く小学生のような期待感ではなく、言葉も通じない異国に飛ばされるような不安感だった。臨也が隣に居ない状態で、町に繰り出る事がこんなに恐ろしい事だなんて考えた事もなかった。記憶が曖昧な、まだ両親と住んでいた時は毎日のように外に出ていたというのに。
でも、行かないと。事情を話せば新羅が行ってくれるかもしれないが、一秒でも早く臨也に眼を覚まして欲しかった。閉ざされたままの世界を解放する為に。身支度を整え、滅多に使わない靴を履き、一度だけ振り返って扉を開けた。
「……」