依傷
見慣れた廊下だというのに、臨也が居ないと途端に知らない場所に早変わりする。零れそうになる涙を留め、エレベーターでエントランスまで降りた。
玄関から見上げたマンションは、毎日を過ごしているというのに、他人のような顔をして聳え立つ。歩き始めても何度も振り返ってそこにあるのを確認する。何度か人とぶつかり、過剰なまでに怯えながら、振り返る事はやめない。陽に焼けていない白すぎる肌、中途半端な身長に脱色した髪。幽霊のように佇んでいる俺に、周囲の大人は奇異の眼を向ける。俯きながら進むが、平日の真昼間に明らかに中学生の年齢である俺が歩いているのを見て不思議がっているだけだと気付き、薬を売っている店を探す。途中でコンビニを何件か見つけたが、どれも交番が近くにあって近寄れなかった。補導されたら色々面倒だ。「教育を受けさせる義務」を堂々と放棄している臨也に迷惑をかける訳にはいかない。庇う所が違うんだが、無知な俺は気付かない。
慣れない直射日光の刺激に眼と肌が痛む。人ごみに紛れれば警察にも見つからなさそうだが、あんな人の濁流に自分から呑まれるなんて絶対に嫌だった。
それにしても店に辿りつけない。薬局に当たる場所を必死で探すが、人の洪水に思うように動けない。一度、店の日陰に入って休憩していたら、急に後ろから話しかけられて心臓が口から出そうになった。
「お兄ちゃん、どうしたの?」
「あ……?」
そこには柔和な表情を浮かべた初老の女性が立っていた。割烹着のようなものを着ている辺り、この店の店員かと意識を向ける。なんと説明したら良いのか決めかねて口をぱくぱくさせている俺に向かって女の人は聞いてきた。
「迷子かい?」
「い……いや、そうじゃ、ない。あの、薬局ってどっちですか……?」
肌が白くて金髪の俺をひょっとしたら外国人だと思ったのか。しどろもどろに用件を伝えた俺に向かって若干驚いたような顔をしている。普通に日本語を喋ったからだろうか。あんたも日本語で話しかけたくせに。
迷子みたいで迷子じゃない俺に向かって女の人は笑って、太陽がある方を指差した。どっち、と聞いたのは俺の方だけど、正直それだけじゃ判らなくて困っていると、なんと「一緒に行ってあげようか?」と言ってくれた。
「い、いや、そんな悪いです」
「あんたこの辺じゃ見かけないからさあ。ちょっと待ってなさい」
そのまま女性は一度店内に入り、また戻ってきた。出掛ける旨を伝えに行っていたのか。
傍から見ればお節介ともとれる行動に俺は安心していた。道中、連れ立つ者があればなんとかなりそうだ。
「兄ちゃん、なんて言うんだい?」
「あ……えっと、静雄です」
「静雄くんかー。御両親は?」
「……いない、です」
「あれま」
彼女は眉を下げ、思い出させてごめんねと言った。正直両親の顔も朧げな俺は、二人の事に謝られてもぴんと来ない。
「でも今は、一緒に住んでますから。えっと、兄みたいな奴と」
「引き取り手さんかね? 幸せかい?」
「はい」
誇らしく、充実感を溢れさせて初めて笑みを見せる。例えどんな常識外れな環境だろうが、同居人が可笑しな奴だろうが俺は臨也が好きだったし満足していた。悩みと言えば今朝の添い寝の事くらいで。
色んな人間に向けられるべき感情のベクトル、それの9割以上が臨也に向いていた。臨也が意図的に俺が外に出たがらないようにしたのも、曲がった愛情という依存を矢印にして向けさせるようにしたという事も、俺は知らなかった。そんな事思いつきもしなかった。それが俺だって、思っていた。
「家族はそいつだけですけど、俺は幸せです」
「そうかい、良かったよ。大事にしなさいよ」
お節介な女性の言葉もすんなり俺に入ってくる。そう、俺は臨也さえ居れば良い。俺の世界も感情も想いも精神も身体も声も指も舌も何もかも臨也のものだ。臨也が居れば満たされる。臨也が居れば幸せだ。だから早く眼を覚まして、俺を見て欲しい。臨也の声、もう半日以上聞いていない。あの赤い眼に見つめられていない。触れられていない。辛い。切ない。早く帰ろうと意気込み、丁度緑色の屋根が見えてきた。
「あそこだよ」
「あ、ありがとうございます。何かお礼……」
「そんなもの要らないよ、親切は受け取っておきな」
そう言って若々しく手を上げて来た道を引き返していく女性に何度も頭を下げた。誰かにこんな感謝した事はない気がする。臨也を抜いて。
そこは病院と併設しているらしく、平日の昼というのに車でいっぱいだった。急いで店に入ろうとする俺の視界に、人影が映る。小さな男の子二人だった。
背の高い方がマスクをして激しく咳き込んでいる。小さい方が、必死に背をさすっている。兄弟だろうか。その答えを肯定するように、後ろから母親と思われる女性が早足に二人に追いついた。
「お兄ちゃん、平気?」
「うん……でも咳、止まんない……」
言いながらけほけほと息を吐く少年。労わるように肩を抱いて歩く弟。良いな、兄弟って。兄弟が居れば臨也が遠くに出て留守番する時に話し相手が居て楽だ。テレビは一方通行だから好きじゃないし。でも、そうしたら臨也は俺に構ってくれる時間が減るから嫌だなあ。矛盾してるよ俺。都合の良い時だけ居てくれる、そんな奴が居ればなあ。
三人を見ながら取り留めの無い事を考え、ふと、その姿が何かと重なり、だぶり、ぶれる。頭の奥が痛くなり、モノクロの映像が雑な音声に混じって展開される。俺も昔誰かに兄と呼ばれていた気がする。誰だ。違う、俺には臨也だけだ。家族なんて、弟なんて、居ない。居ない居ない、居ない!
『体調悪そうだよ、兄さん』
「……幽……?」
脳裏に浮かんだ言葉。言った黒髪の子供。俺の口から飛び出た知らない名前。
「か、すか」