依傷
『また喧嘩してきたの? 怪我無かった?』
『……掠り傷、って。血が出てるよ。救急箱持ってくるから』
『俺は離れないよ。兄さんの味方』
『幽、俺が怖くないのか?』『別に』
「かすか、かす……か。……幽」
「……幽……平和島、……幽……」
そうだ。居た。俺には、弟が。
「幽……幽っ……!」
大好きな弟が。喧嘩別れした弟が。俺を兄と呼ぶ、唯一の人間が。
狂ったように三文字を繰り返す俺の横を、三人が通り過ぎる。思わず振り返り、絶望的な幻覚が見えた。母親に手をひかれながら、幽と歩いた病院の道。
「う、う、ああ、あ」
自分で封じたのか、封じられたのか、判らない。判らない、何も判らない。俺には何も判らない。
「いざや、いざ……かすか、……かすか……かす、か……?」
吐き気が込み上げる。急激な情報整理に頭が付いてこない。どういう事だ、なんで今まで忘れてたんだ。一瞬だけ考えたが、すぐに別の感情に支配される。
会いたい。今すぐに。そうだ、施設に入れられて別々に引き取られ、引き離された俺達。臨也は、臨也なら知ってるんじゃないか?
会いたい会いたい会いたい会いたい会いたいあいtttいたあいたいああいたあいあいたいかすかすかすかすかすかすかすかかかすかすすかかすか
俺は案内された道をUターンする。途中でぶつかる人に一瞥すらくれない。臨也に会いたかった。幽に会いたい為に。
久しぶりの全力疾走に全身の筋肉が悲鳴を上げる。滅多に走らない為にすぐに肺がキリキリと痛む。金糸が汗で額に貼りつく。この道に終着点は無いのか、と思うくらい長い長い人の迷路。だが実際には5分程度で、マンションのエントランスに飛び込むと、暗証番号を打ち込む。認証されて扉が開くのも待ち切れなくて、エレベーターを待つのも億劫だ。階段を駆け上がって20階以上も上にある自宅を目指す。永久の回廊に何度か足を滑らすが、ようやく到達したそこを、ヒビが入るくらい強くノブを握りしめ、開く。玄関は明るく開放的だった。
「はっ、っは、……はあ」
靴を脱ぐのももどかしい。人生で一番性急な時を刻んでいる俺は事務所とリビングを横切り寝室を破壊する勢いで扉を開けた。
騒音に眼を丸くしていたのはこちらに背を向けている新羅。そしてベッドから上体を起こしている臨也だった。俺が外に出ている間にいくらか体調を持ちなおしたのか、少しだけ楽そうな顔をしていた。顔が赤いのを見るに、まだ熱はあるんだろうけれど。面食らった俺は扉の前で息を切らせ、乾いた喉を潤す為に唾を飲み込む。
「おかえりー、思ったより早かったねえ。あれ? 薬は?」
俺の手に何も握られていないのも見た新羅が首を傾げる。だが俺の意識の中で新羅は既に除外されていて、声すら聞こえなかった。乱れた呼吸で凝視している俺に気付いたのか、今日初めて、臨也が声を出した。
「シズちゃん、外に出たんだって? 大変だったでしょ、俺が居なくて平気だった?」
自身の体調が悪いのに、臨也は俺を気遣う言葉を投げかけた。内心は許可無しに下界へ降りた事を面白く思っていないかもしれないが、声が掠れているのを見受けるに、本心かもしれなかった。
臨也の声が俺の身体を侵食するように浸透する。止まっていた思考が動き出し、俺は疲れて悲鳴を上げる足を動かし臨也に近付く。只ならぬ様子の俺に、臨也は外で何か嫌な事でもあったのだろうと解釈し、病人なのに俺を受けとめようと両手を広げた。だが俺はその肩を掴み、そして、禁断の言葉を投げてしまった。
「い、いざや。幽は何処だ?」
「――え?」
臨也は笑った表情を固めたまま止まる。テレビが綺麗に一時停止を起こしたような止まり方で、俺の台詞が完全に予想外だったのだろう。情報屋を名乗りちょっとやそっとの事じゃ動揺しない臨也がこんな醜態を見せるとは。
だが興奮している俺は臨也の心境まで察する事は出来ず、早口に捲くし立てる。
「思い出したんだ、俺には弟が居る。幽って奴がいる。そう、俺より歳は三つ下だ。髪が黒くて、ええと、なんか何時も無表情だけどすっごい優しいんだ。でも幽は別の人の所に行ったからずっと会ってない。店で俺と幽によく似た奴を見かけて、それで思い出したんだ。なあ臨也なら知ってるんだろ? 幽に会いたい。幽は何処に居るんだ? あいつ今どうしてるのか知りたい。無事なんだろうか、幽は俺の事心配してたから。俺も幽が好きだから、兄弟だし、な、臨也。臨也なら判るんだろう? 教えてくれ」
色々なものが止まっていた臨也が、ゆっくり動き始める。瞳孔から、指先、顎。細部が揺れるように動き、珍しく沢山喋った俺は呼吸が荒くなる。俺の呼吸を整える音以外、何も聞こえなかった。
臨也の変化に気付いたのは、臨也の性格や性癖を見落としている俺ではなく、俺よりも長く臨也と付き合っている新羅だった。
「い……臨也、落ち着こう。ね?」
臨也程ではないが、俺も新羅とは多少の交流がある。臨也と旧知の仲という事で初対面の時は嫉視していたのだが、新羅には既に他が眼中にないくらいの意中の相手が居ると知ってからはそれなりに仲良くしている。そして少なからず言葉を交わした新羅の今の台詞が、聞いた中で最も震えていると俺は気付いた。
まず最初に新羅を見上げ、新羅の視線を辿って臨也の顔を見た。何時もより少しだけ引きつった、“何時もの”笑顔。
「へえ……シズちゃん、俺の知らない所で、お勉強したんだね」
「……?」
臨也の手がそっと俺の金髪を撫でる。その優しい仕草と甘い表情に俺は騙された。
その手が俺の髪を思い切り掴んで引っ張り、ぐっと顔が近付く。苦痛に歪んだ顔が引っ込むくらい、臨也の無機質な笑顔が恐ろしかった。
「つまらないなあ」
臨也の声は心底本音らしく、その人間らしい声と機械的な顔が比例しない。
熱で赤かった顔は何時の間にか皿みたいに白くて、黒髪と白い肌、そこに浮かぶぽっかりと真っ赤な瞳が、俺の心を壊す。
「勝手な事してさあ、あーあ、今までが無駄になったよ。どうしてくれんの? シズちゃん知ってる? 人間という種をコントロールする労力をさあ!」
「ひ……あ……」
ぶつぶつと何本か抜けた髪とは関係無く、眼のふちに涙が浮かぶ。怖い。今の臨也は怖い。
俺の瞳に浮かぶ、絶対的な恐怖を見て取ったのか、臨也は至近距離でくすりと笑った。
「だから外には出さなかったのに……、あんな有名な奴、外歩けばすぐ知っちゃうからねえ……」
ぼそりと呟かれた言葉、意味なんて判らなかった。脳が理解するのを拒み、ただこの恐怖から解放されるのを望む。
かちかちという音がする。俺の歯が、震える身体に呼応して鳴る音だ。狂気を孕んだ、臨也という存在。恐ろしい肉食獣に、俺は馬鹿みたいに懇願した。
「あ……、ぁ……ゆ、……る、して……」
肉食が草食の言う事なんて聞く訳無いと、心の何処かでは気付きながら。
「いやだよ……、キズモノになったシズちゃん、どうしようかなあ……」
新羅の息を呑む音が聞こえる。別次元で展開されるそれに、ついていけていないのか。俺ですら取り残されているから。