依傷
臨也が次に言う台詞。予想が出来た。字面で見ればなんともないけど、臨也が本心からそう思いながら言えば、きっと俺は壊れる。心が跡形もなく。
「……い……や、だ……いわ、ない……で……」
心がフリーズした。
「捨てちゃおうかな」
世界の崩壊の音は、愛している臨也の声だった。
「っ!! い、嫌だっ……嫌だ臨也、臨也臨也、赦して、赦して臨也ぁ……!!」
縋りつこうとした手は叩き落とされる。行き場をなくした俺は、どんな事をしても臨也に繋ぎとめて貰おうと必死になって腕を伸ばす。
だがその腕は、唐突に頬に襲った激痛によって引っ込めるのを余儀なくされる。
「え……」
薙いだ臨也の右手。殴られたと気付くまでには、かなり時間がかかった。今まで臨也に暴力を振われた事なんてただの一度も無かったから。ぶたれる、って、こんなに痛いものだったっけ。思い出せない。
臨也が俺に手をあげる事は無いと勝手に決め付けていた。突然の衝撃に思考が大幅に遅れ、ただ事実だけがノイズ混じりの脳髄に流れた。
すてられたらどうなる? (臨也と会えなくなる)
嫌だそんなの (でも臨也はそうするって)
そんなの認めない (捨てられたら自由に)
明日を生きられない (幽に会える)
臨也が俺の生きる理由 (それって臨也が言ってた)
臨也以外要らない (臨也以外を知らないだけ)
臨也は俺を愛して (でも殴った、幽はそんな事しない)
臨也を置いていくなんて (幽が待ってる) で、も
(カ ス カ)
俺は何を思って言ったのか本人にすら判っておらず、唇は覚束無く「か……、す、か」と不協和音を歌った。
それを俺は、一生後悔するとも知らず。
立ち上がった臨也は俺を見くだし、軽蔑と侮蔑の混じった眼差しを容赦無く振りかざす。臨也にすてられた。そう思った瞬間。俺と言う存在が自ら俺を全否定し、愛を唄う呪いの刀のように俺の神経を犯す。零れた涙は何を想って流れたのか。
「い、」
何か言おうと新羅が口を開く。その音が俺を苛み、俺は頭を抱えながら絶叫した。俺は生きられない。臨也が居ないと生きられない。植えつけられたそれは臨也の予想よりも深く強く俺を蝕み、ぷつりと理性の糸が切られた。
「ああ、あ、あ、ああああ、あ、あ……ああ…あああ……、あ、あ、あああ!!」
臨也の眼を見た。嘲っていた。俺を。
存在理由が無くなった俺は口元を押さえながら飛びあがり、部屋を飛び出し、玄関を抜け、エレベーターに乗る。重力に吐き気を覚えて嘔吐しそうになるのを必死で堪え、代わりに眼からは止めどなく涙を流しながら、曇り空の街中を駆け出した。何時も窓から見ていた風景を頼りに、人が疎らな公園に辿りつく。水道を開きながらぐしゃぐしゃになった吐瀉物を逆流させながら、様々な不純物で汚れた俺の顔は見るに堪えないんだろう。心臓が耳の横で鳴っているようだ。前後不覚となった俺は視線をマンションに向ける。臨也の眼が俺を支配する。見られている気がして、捻った蛇口を戻さないまま逃げ出す。どうしてだ、なんでだ、臨也は俺を嫌いになったのか。臨也に愛されていれば理性を保てた俺は、こんなに惨めで無残な姿だ。臨也は俺に幽を思い出させたく無かった。どうして、どうして、どうして。ああ、そうか、臨也は俺に見て欲しかったんだ。自分だけを見て欲しかったんだ。だけど幽は俺のたった一人の家族だ。それに、別に俺は再会しても臨也の元を離れる気なんか無かったのに。臨也の馬鹿、勘違い野郎、助けて赦して愛して、臨也臨也臨也!
何処に向かっているのか、俺が聞きたかった。ただ臨也から逃げたかった。もう俺は赦されない。臨也が居ない世界。此処は何処だ。臨也が居なきゃ、何にも判らない。
「臨也、臨也……!」
走っている間に百回は呼んだだろう名前、あの優しい声でもう二度と俺の名前を呼んでくれないのか。最後に俺に言ってくれた言葉が捨てるだなんて。これは罰なのか。臨也以外に眼を向けた俺への戒めなのか。
既に見知ったものが何一つ見当たらないそこで、俺は足を止めさせられる。転ばせられたんだ。俺と同じ、でもくすんだ汚らしい金髪の男に。
「なに急いでんの?」
「てか君中学生でしょ、こんな時間にさ」
勢いよく転んだ俺にげらげらと品の無い笑い声があがる。泣いている俺を見て更に笑い声が高まる。すべてが憎くて憎くて、ゆらりと立ち上がった俺は一番近くに居た不良の胸倉をつかんだ。
明らかに相手は社会人。身長だって頭一個俺より大きい。でも化け物であるがゆえに臨也に拾われた俺は、空いた手で男の首を絞めた。
「お前が居なきゃ……」
「っぐ、あぁ」
「臨也は俺を愛してくれたかもしれねえのに!!」
本能が、意味のある言葉を喋らせてくれない。腹を膝で蹴り飛ばし、肋骨が折れる感触を確かめて手を放す。格下だと思っていた俺の逆襲に、全員が驚いている。
「お前ら全員殺せば臨也は赦してくれんのか……?」
「な、」
「なあ死んでくれよ……、そうすれば臨也はきっとまた……は、は、……死ねえええ!!」
固く握り締めた拳で人間離れした膂力を暴力に変え、顔を殴る。きっと整形手術が必要になるが、殺す気で使っているんだから気にする必要無いだろう?
効率が悪くて、ガードレールを引っこ抜いた。俺の腕の細胞が何本がびきびきと裂ける音が聞こえたが、そんな事どうでもいい。未成熟な身体を代償に臨也の愛を貰えるなら。
遠心力をたっぷり乗せた一撃。何人かが宙を舞い、確認する事もなく気絶する。俺に本能的な恐怖を感じたのか、誰も俺の周りに近寄らなくなってきた。
「ははっ、臨也ぁ! 見ろよ俺、こんなに簡単に人を殺せるんだぜ! 臨也、臨也? 何処に居るんだ?」
実際には気絶しているだけで誰も死んではいない。俺は転がった死体に近い生身の身体に眼もくれずきょろきょろと周りを見渡す。
「おっかしいなあ……。なんで居ないんだ? 臨也……。……いざ……や……」
不良が全員逃げる足音を聞いて、脳が少しだけ正常に戻る。閑散とさせられたその場所。俺はガードレールを足元に落とし、振動が収まるまで見つめていた。ぽつぽつと雨の降りだしたその場所を後にし、俯きながら足を進める。無意識だが、きちんと臨也のマンションとは反対方向に。壊れた頭は事態を正常に理解していた。もう俺は臨也に愛されないって。俺にとって臨也の言葉は何よりも強い執行力を持つ。
大通りに出ると、降りだした雨に道行く人々が走っていた。中には折りたたみ傘で凌いでいる人間も居て、手ぶらな自分はこの上無く異質だった。強くなる雨脚。強くなる疎外感。あてもなく彷徨い何時の間にか芯までぐっしょりと濡れる。土砂降りになった天気を仰ぎ見て、俺の涙を誤魔化した。再び下を向き歩き始める。金髪から滴る水も気にせず、足取り重く進む。臨也を糧に生きてきた俺に明日を生きる能力は無い。
「……」