依傷
今日だけで二度目の失神。それに目覚めたのは余り時間が経っていない頃だった。
白い天井、寝かされているんだな、と浅い強制的な眠りにすぐ意識が覚醒する。俺の右手には点滴が刺されているが、針を何度も刺したのか、周りに赤い斑点が見える。此処は新羅の家だけど臨也も居るんだなと情報を整理し、上半身を起こす。着替えさせられたのか、ずぶ濡れだった薄いタートルネックが白いカッターシャツに変わっている。
淀んだ目元で視線を泳がせる。するとサイドテーブルに“都合が良すぎる”形でモノクロのそれが置いてあった。
取っ手は黒、留め金は銀、刀身は白銀。無骨にして滑らかな臨也のバタフライナイフ。ああ、これだ。俺を殺すのはこれだ。
手に取り、臨也の真似をしてぱちんと開いた。まるで俺の為に作られたかのように手に馴染む。サイズとか形とかそういう問題ではなく、俺の気の所為の範疇なのだろうが、ナイフがどくんと振動したように感じたんだ。手に押し当て、引くような動作をする。これで良い。俺は顔を上げた。恐怖や迷いからではなく、密室の室内なのに視線を感じたからだ。誰も居ないのに感じた俺を見る眼。ああ、きっと臨也だ。さっきのゴロツキをやった時に俺は無意識に叫んでいたな、臨也を呼んで。見てくれ、って。でも、今度はちゃんと見ててくれるんだな。嬉しい。
俺は清々しい程に爽やかな笑顔を浮かべ、ナイフを「滑らせるようにして刃を立てる」。リスカのようにスライドさせるのではなく、切っ先がちくりと肌に食い込むように、垂直に立てた。重力でゆらゆらと揺れるそれを見届けた後、ナイフを逆手に握り、骨に当たらないように手首に思い切り突き立てた。
「っぐ……!」
流石の激痛に眉が寄せられる。見たいような見たくないような祈る気持ちで視線を落とすと、根元までしっかり突き刺さっていた。腕を裏返すと、切っ先の先端が皮膚を突き破り銀が覗く。見事に貫通していた。
どくどくと血が溢れ清潔なシャツとベッドのシーツを汚す。自分の目の前まで腕を持ち上げ、鑑賞物のように眺める。確かに、現実味のないそれは芸術と呼んでも良かったかもしれない。白い肌を突き抜けた銀の刃物。見た事のない血の量に俺は笑った。興奮で汗をかいている。垂れた血液が白いキャンパスを染めていくのをじっと見つめていると、扉が開き、室内なのにヘルメットをした首無しライダーが入ってきた。
「―――」
セルティは恐らく俺の名前を叫んだんだろう、足を止めた間があったからだ。だが俺は芸術品を見つめるのに夢中で視線をずらす事すらしない。
『お前は馬鹿か、何時から自殺志願者になったんだ!』
PDAに打ち込まれる文書を読むのも面倒臭く、激痛に苛まれる左手を眺め、柄を握る。引き抜けば出血多量で本当に死ねるかもしれない。
恍惚とした表情の俺に怯えたのか、セルティの肩が震える。怖がらせてごめん、シーツを汚してごめん、セルティ。でも、でも、俺は。
ぐち、と新たに肉を引き裂きながら俺はそれを引き抜こうと力を込める。だが、室内に入ってきた気配で動きが止まった。気配だけで俺はその人を判別出来る。今は視線を合わせるのが怖くなかった。
「臨也……」
生気の無い眼で俺は臨也を見つめた。臨也は慌てふためくセルティと違い、この惨状を見ても驚きもしないし、意外そうな顔もせず、淡々とした無表情だった。いつもの黒い服に黒い上着。風邪はもう大丈夫なのか、と今や自分の方が看病される立場なのを棚に上げて心配する。
「いざ、や。見て」
もう一度呟く。俺はよく見えるように左手を掲げる。臨也の所有物に貫かれた残酷な矛。くっく、と喉の奥から不気味な笑い声が出た。暫く肩を震わせていると、臨也はそれを見て表情を変えていない事に気付く。そして俺はぴたりと笑い声を止め、セルティを退け、ベッドから降りる。だが足に力が入らなくて歩けない。そのまま足を引きずるように這って進む。左手は力が無いから、事実、右腕と太もも、足先だけを頼りに。殺人現場のように俺の手首から流れた血液が血痕を繋げる。狂ったような顔の俺が、死体のように這って近づいて来るのに、臨也はほんの微かに笑ったままそこから動かない。
赤ん坊のように、はては犬のように。突き刺さったままの臨也の感触。俺は臨也の足元まで近づくと、ぐっと右腕を伸ばし、臨也の上着を掴む。縋るような手つきのそれを、臨也は今度は振り払わなかった。
「……臨也……、お願いだ、嫌わないでくれ。臨也の言う事ならなんでも聞くし逆らわない。幽の事忘れろって言うなら忘れる。死ねって言うなら今すぐこれ抜いて死ぬ。でも、でも……嫌わないで。俺を傍に置いてくれ。愛してくれ。臨也無しじゃ……俺は、生きられないっ……」
「随分と我侭なお願いだね」
びくっと手が震えるが意地でも離さない。
「しかも要望も多い。でも、俺は自殺したがる人間はいやだなあ、重たいからね」
「っなら生きる……! 生きるから、俺を……生かして、欲しい」
上着を掴んでいた服をずらして臨也の剥き身の手に触れる。一度は拒絶されたそれ。そっと引っ張って、自分の上体を起こす。
形の良い人差し指を口に含み、舌で舐める。臨也は抵抗せずに、奥で放心したように俺たちを眺めているセルティに顔を向けた。
「悪いけど運び屋、新羅を呼んで来てよ」
「……」
セルティはヘルメットを傾けて判ったというように頷くと足早に部屋を飛び出る。
それを横目で確認した臨也は突然跪く。急に口の中の指の角度が変わった事からくぐもった声が漏れるが、すぐにそれが引き抜かれる。
「っ……」
膝をついた事で距離が縮まった臨也は、未だ突き刺さったままのナイフに手を置き、ぐりぐりと動かした。
「っぐぁ……!」
思わず眼を閉じた俺の耳元に、甘く穢れた囁きを落とした。
「今回だけだから、ね?」
一気に頬に流れた涙、それの感触にがっくりと力を緩めた俺は何度も頷く。しゃくり上げながら臨也を見上げると、両手で頬を持ち上げられ、視線を交差させた後に口付けを落とされる。
甘美な魔法。あんなに欲しかった、求めていた臨也が目の前に居る。俺は初めて自分から舌を入れる。わざとらしい動きでそれを迎え入れた臨也の口内は凄く熱くて、溶けそうで。誘うように奥へ逃げる舌を追って何度も絡める。稚拙な動きをリードするように臨也は舌を動かす。何も考えたくなかった。身体がぐちゃぐちゃになって、頭がどろどろになるまで犯されたい。何も無い俺に薬という毒で満たす臨也。
「ん……ぁあ……、いざやぁ……名前……呼んで……」
「シズちゃん……?」
「もっと……」
「好きだよシズちゃん。大好きだよ……、ずっと俺のものだよ、シズちゃん……」
ナイフも気にせず、臨也の頬を掴んで、その後に首に絡み抱きつく。左手から伝った血液が臨也の頬を汚すが、不快に眼を細めたりせずに微笑みを浮かべる。濡れた吐息、泣き腫らした瞼を指でなぞってくれる。不安が一気に溶けていく。この形がどんなに歪んでいようが間違っていようが、俺には臨也が必要なんだ。臨也は、素直じゃないだけなんだろうか。そう思いたい。出来る事なら同じ気持ちであって欲しい。