君への涙
──太陽暦475年。
フッチはブライトの大きな身体に包まれて、甲板から遠く湖を眺めていた。
ブライトが本当に竜であったこと、こんなにも立派に成長していたこと、フッチの姿かたちは違っても一目でそうと気付いてくれたこと、変わらず高く短く鳴いて甘えて頬を寄せてくれたこと、硬い鱗に覆われたけれど柔らかな熱で優しく包んでくれたこと、そのすべてが喜ばしく嬉しいものであったけれど、城の外へ出て感じた風に、フッチの胸は切なく苦しく締め付けられてならなかった。
風が泣いている。
その嘆き悲しむ声だけが、痛く胸に響いた。
ルックに何があったのだろうか。こんなにも悲鳴を上げて、何を求めているのだろうか。
「なあ、ブライト。ルックは……どうしているんだろう」
白銀に輝く鱗に顔を埋め、フッチはそう問い掛けた。キュイ、と小さく鳴く声が返る。
「どこに居るか……知ってる?」
応えはない。ただ静かに瞼を伏せる気配がした。
「……じゃあ、僕を石版のところまで連れて行って」
ビュッデヒュッケ城から少し離れた丘の上、寂しげにぽつりと存在していたのは──星の導きで集った者たちの名が刻まれた『約束の石版』。
「なに? 何か用?」
そう言って冷めた目で一瞥するルックの姿がちらついた。
石版の前には常にルックの姿が在った。師に託されたことを律儀に守っていたのか背くことすら面倒だったのか、朝も昼も夜も、晴れの日も雨の日も、どんなときもルックは守り人として石版と共に在った。
星が集ってゆくことに、日に日に石版に名が増えてゆくことに欠片も興味がない風を装っていたけれど、ときどき刻まれた名に触れていたことを知っている。あの眼差しを知っている。
風雨に晒され、守り人の居ないその石に触れた。ザラつき薄汚れたそれは、けれど確かに星々が刻まれていた。
一つ一つ確認するように指を滑らせる。
そうして見つけた『天間星』。
けれどそこに彼の名はない。刻まれるはずの名の代わりにあったのは、黒く冷たい平らな石の感触だけだった。
フッチは祈るように眸を閉じて、その星に額付けた。
──ルック、君に会いたい。
どのくらいそうしていたろうか、頬を髪を撫ぜる風を感じてゆっくりと瞬いた。小さく息を飲んで振り返ったそこには。
「君も大概数奇な運命にあるようだね」
ふうわりと転移の風を纏い降り立つルックの姿があった。
「──ルック!!」
「時空が歪む気配がして来てみれば……まったく、どうせまたビッキーなんだろう? 皮肉なもんだね、今さらあの頃の君とこうして出会うなんて」
一歩一歩草を踏みしめる。そうしてルックはフッチの前、けれど届かぬ位置に立ち止まった。
風色の双眸がフッチを射抜く。
その視線に絡め取られながら、何か、何かと言葉を探すも、結局は当たり障りのないものしか出てこなかった。
「髪、切ったんだね。なんか新鮮な感じ。法衣でもないし、まるで」
別人みたいだ、とは口の中だけで呟く。
射抜く眼差しはそのままに、ルックは言葉なくただそこに在った。
「気のせいかな、風が……泣いているように感じるんだ。ねぇ、ルック。こんな風のときの君はいつも、」
「君には関係のないことさ」
鋭く遮られる。
否定するようにフッチは大きくかぶりを振った。
「関係なく、ないよ! 友達の心配をするのなんて……当然じゃないか」
「友達……ね」
「そ、そりゃあ、ルックはそう、思って、ない、かもしれないけど……僕にとってルックは大切な友達だよ」
徐々に勢いを失くし尻すぼみに呟きながら、けれど最後はしっかりと視線を絡めて伝えた。
すうとルックの眸が細められる。その双眸に宿る感情の名を何と言おう。
一瞬揺らいだように見えたそれは、すぐに嘆息と共に消えた。
「ふん、勝手に言ってなよ」
「ねぇ、ルッ」
「ブライトが竜だってことも判って満足しただろ。ビッキーの鼻でもくすぐってさっさと帰ることだね」
「待っ、」
吹き荒ぶ風が視界を覆う。草が花が舞う。
そうして瞬きのあとには、ルックは気配も残さず掻き消えていた。
「ルック……」
届かなかった腕を握りしめ、フッチは俯く。頬を伝った涙を、風が浚うことはなかった。