君への涙
──太陽暦460年。
逸る心を抑えるようにゆうるりと階段を昇り、ルックの部屋へと辿り着く。知らず震える手でノックを三度。いつもどおり応えはないけれど、拒まれているわけではないことをフッチは知っている。
小さく軋む扉を開くと、やわらかな風が通り抜けた。視線の先、窓辺に寄り掛かるようにしてルックが静かに佇んでいる。風色の双眸は窓の外、けれど景色ではないどこかへと向けられていた。
「で、わざわざ何なわけ?」
視線はそのままに、ルックはそう吐き捨てる。
けれど数度の瞬きのあとにも返らぬ応えに、苛立ったようにようやく振り返った。
扉の前に立ち竦むフッチの頬を、幾筋もの涙が伝っている。
ルックは一瞬息飲み瞠目するも、そんな自身の反応を誤魔化すように僅かに眉を顰めて舌打ちする。
「ちょっと、大の大人が泣くんじゃないよ。みっともない。何なんだいさっきから」
「っごめん。でも、ルックに会ったら……っ、この、風が優しくて、たまらない。ごめん」
知らず溢れ出す涙を乱暴に拭いながら、フッチはくちびるを噛み締め何度も何度も繰り返し呟いた。
「……そっちにも、僕は居るだろ」
「……うん、」
呆れたように深く嘆息するルックに短く返し、そうしてまた、部屋には沈黙が下りた。
鳥の囀りが聴こえる。
風にそよぐ細い髪を照らす木漏れ日が揺れる。
陽光に煌めく風の色が見える。
柔らかで、優しく、いとおしい、風がここに在る。
「ねぇ……君に触れても、いいかい」
不快気に冷えた視線に射抜かれる。
「お願いだ。一度だけ、君に触れさせてくれないか」
縋るように重ねて請われ、諦めたのか拒むことすら面倒だったのか、ルックは舌打ちして顔を背けた。
「……勝手にすれば」
たった数歩の距離が遠い。
震える腕を伸ばす。
冷んやりとした細い右手に躊躇いがちに、けれど消えてしまわぬようしっかりと、触れる。
そうしてその淡く光る紋章に──祈るように額付けた。
フッチの頬を、一筋の涙が伝う。
今も昔も変わらぬ姿の少年の身体を抱きしめる。
出会った頃は決して届くことのなかった背は、歳を重ねるごとに近付き──いつしか追い越し、見下ろすまでになった。細くけれど大きく力強く感じた身体は、本当はこんなにも小さく儚かったのだろうか。
自身の魂を砕き灰色の未来を壊すと言った、彼の姿を思い浮かべた。憂いに惑いながらも強く光を湛えた眸。
フッチに掛ける言葉はなかった。出来たのはただ、戦うことだけだった。
ルックを抱く腕に力が篭る。
その肩に顔を埋め声を殺して、泣いた。
震える全身で縋るように己を抱く青年を、ルックは表情もなく視界に入れた。
拒まず、けれど受け容れることもなく、その腕は下ろされていた。
ただ、風だけが柔らかくフッチを包み込んでいた。
「ごめん……ありがとう」
そっと、名残惜しげに身体を離す。
赤く濡れた眸のままフッチは微笑んだ。
見下ろしたルックの眸は長いまつげに半ば伏せられ、その双眸を彩る風色を見ることは叶わない。
「ねぇ、ルック」
静かにその右手を取る。
「たとえ君が百万の でも、僕にとっては掛け替えのないたった一人の友人なんだ」
途中吹き荒いだ風が言葉を浚った。
「何を、」
「覚えていてくれなくていい。ただ、これだけは知っていてほしい」
絡んだその熱を、焼き付けるように見据える。
「僕も、みんなも、君のことをあいしているよ。君が世界を、みんなをあいしているように」
「…………」
「──それだけ。みっともないとこ、見せちゃったな」
誤魔化すように苦く笑んで、髪を掻いた。
ルックはいつものように鼻を鳴らして視線を逸らす。
「別に。君がみっともないなんて最初からだろ」
「はは、違いない」
「それじゃあ。なるべくビッキーのところに居るようにするよ」
フッチはしばらく言葉を交わすことなくただ吹き抜ける風を感じていたが、振り切るように踵を返した。
「じゃあ、また。十五年後に」
「フッチ」
扉へと手を掛けたところで名を呼ばれ、弾かれたように振り返る。
翳った窓辺に、変わらず視線を逸らしたままのルックが居た。
「君はどこまで──知っているんだ」
ヒュと息飲み、そうしてまた泣きそうに顔を歪めてフッチは笑った。
「なにも。僕は何も──知ることは出来なかったよ」
「……そう。そうかい」
軋んだ音を立て閉まったのは、扉か心か。
これが最後だからと、その背にもたれフッチは泣いた。