たくさんの山、たくさんの海
しかし登りつめた頂上からとてもうつくしい景色が見えます。
雪を被った山脈はなだらかにそこに横たわります。音は、男の口から漏れる荒い息以外は一切聞こえません。
ずっとずっと黙りこんでいた山は、待っていましたとばかりに男に問いかけました。
どうだい、この山はうつくしいだろう? 君のたったひとつにふさわしいんじゃないのかい?
男はゆっくりと深呼吸してあたりを見回しました。
身を切るような冷気の中吸う空気は肺にすこしだけ痛みを教えてくれますが、にごった地上の空気とは正反対の清廉さを男にもたらします。
身体は冷えていましたが、心はやけに軽いのです。走りだして、叫び出して、もやもやとたまったたくさんの衝動を叫び出したい気分に駆られます。
口から吐き出される白い息を見つめながら男は思います。
ああ、このまま叫んでしまえば、どんなに楽になるだろう。心地よいだろう。幸せだろう。
うずうずと喉が準備をし始めたその時、山の声で男は意識を取り戻します。
おい、聞いてるのかい? 僕はどうだって言ってるんだ。君のたった一つ?
その問いに、もう一度、深く呼吸して男はあたりを見回します。
山は確かにうつくしいものでした。
男の探すたった一つにふさわしいものだったのかもしれません。
けれども、男はゆっくりと首を横に振りました。
何か足りない気がしたのです。男には分からない、なくてはない何かが。
ある日男は海に出会いました。
彼女はとても大きく、とても穏やかでした。
朝の光を受けきらきらと輝く彼女は、えいやこらしょと小さなボートで進む男に興味を持ち声をかけました。
ねえ貴方、そこの貴方、貴方は一体どこに行くと言うの?
男は答えました。
行き先は決まってないよ。あえて言えばどこまでもさ。
まあ、まるっきり馬鹿ね。そんな曖昧な旅を続けるだなんて。だから男っていやなのよ。
曖昧でもないよ。行き先は決まってないけれど、目的はちゃんとあるんだ。あのね、俺はたった一つを探しているんだ。俺だけの、俺のものを世界を旅して探している途中なんだ。
へえ。でも一つって何?それは人なの?物なの?
そんなの分からないよ。まだ探しているところなんだから。ああ、でも案外君かもしれないね。
あら、そんな子供みたいな顔をして案外上手なのね。
海はまんざらでもない顔をして微笑みます。
作品名:たくさんの山、たくさんの海 作家名:ひら