局地的視界濾過装置
外出する際には概ねコンタクトレンズを使用しているのだが、神社へ帰るとそれを外して眼鏡に切り替えるのだ。コンタクトレンズは酸素を通し難いから長く装着していると眼が乾いてしまうのだそうで。装着する場面をたまたま見た雉明がとても驚いたのはつい先日の事である。
字の読み過ぎできつい近眼なのだと言って七代は肩を竦めていたのだが。秘法眼としてあれほど強い能力を持つ七代千馗の視力が弱い、という事が、何となく雉明には不思議に思えてならなかった。視力と能力は関連が無いから本当は不思議な事でも何でもないのだろうが、それでも雉明は根拠も無く信じていたのだ。七代の眼に捉えられぬものはないのだと。それがまさか、何かの助けを得なければ現のものさえ明瞭に見えぬとは。
まさか失望したわけでもなかったが、ひどく驚いたのは事実である。
「おれも、きみが教えてくれるのなら何でも構わない」
少しだけ見慣れぬその横顔を見詰めながら応えると、七代が肩を竦めた。眼鏡をかけた、ただそれだけなのに纏う空気が変わったように見える。
「かわいい生徒だねえ、雉明は」
「、そうだ、せんせい、だったな」
「そうそう。センセイ、ね」
此方が教えてもらうのだというのに、七代がいやに楽しそうな顔をしているのは何故なのだろう。
うまいのだと先刻言っていたけれど、ものを教えるのがそもそも好きなのか、はたまた他に理由があるのか。雉明にはよく判らない。しかし、不用意な事を口にしてしまったと後悔していたので、七代の方にも何か楽しいと思えるような部分がもしあるのなら本当に良かったと雉明は思う。
「…………そうね、物理、とかにする? ぜんっぜん接点無くておもしろいかも」
七代の手はそう言いながら、歴史や古文と書かれた教科書を選択肢から外すようにして机の上から退けている。そういった教科であれば雉明の中に既知の部分があるのだと、七代は見越しているのだ。
どうせなら、と。
七代の言うように全く接点の無い教科の方が面白いのかも知れない。
相変わらずの思考の早さに生徒は微笑んだ。
「そう、だな、よろしく、せんせい」
雉明がそう口にすると七代は一瞬眼を丸くした。そう呼べと言ったのは七代だというのに。
「…………うん、まあ、こちらこそ?」
眼鏡をかけた先生は少しとぼけた調子で応え。口調を改めるでもなく、そのままのろりと授業を開始した。
物理は、自然科学というものの一種である。ものの構造や性質を明らかにし、それによって起こる自然現象の普遍的な法則について研究するものだ。
七代がそう前置きするのを聞き、その傍らで雉明は頷いた。
「エネルギーに応用しているもの、とかだろうか」
「あー、そう、そんな感じ……量子エレクトロニクスとかな、まあもっと身近なところで言えば音とか光とか、そういうのも対象になってるの」
「成程」
「要するに、状況を仮定して、じゃあこの場合ならコレはどうなるの?っていうのを式に当て嵌めたりして考えるのが物理の問題、かな」
「問題?」
「ああ、えっと、授業でやるのはって事。そりゃ全部試せれば話は早いけど試せるモンばっかりじゃないしな。授業でやるのはほとんど仮定の話」
「……想像力が必要になりそうだな」
「そうね、物理は特にね。ていうか、テスト前に必ず世話焼かされるもうひとりの生徒にツメの垢をプレゼントしてやってくれる?雉明。壇がもうちょっとでも雉明みたいだったら俺の苦労も少しは減るんだけど」
「……………………せんせい、すまない、垢は無いようだ」
「あらら、そりゃ残念だ」
あまり大きくない机の上に教科書を広げ、肩を寄せ合うようにしてそれを覗き込む。
教科書の頁には見慣れぬ図と見慣れぬ記号が踊っていて、それは何処か見知らぬ国の言語のようにも見えた。確かに興味深いものである。
出来得る限り距離を詰めているので、伝わる七代千馗の声がとても近い。七代が喋れば、触れ合う肩からそれが僅かな振動になって雉明へ伝わってくる。鼓膜からは音として、触れる箇所からは振動として。
成程せんせいの説明を踏まえるならば、この声音も、式によって数値化してしまえるという事なのだろうか。無形のものを眼に見える数値として書き表わすのもとてもおもしろいとは思うのだが、こうして感触としてその身に感じる、その事に勝るものは、恐らく無いだろう。
少なくとも、雉明はそう思う。
触れる事で直接知る。その方がいい。
尤も、物理の講義を受けている最中に考える結論としては間違っているのだろうし、何よりせんせいにも少し申し訳無かったのだが。
すぐ傍らから滔々と、説明する七代千馗の声音が流れている。
会話なら言葉の交換なので必然、七代と雉明の声が互い違いに組み合わさる事になる。しかし今は会話をしているわけではなかったから、雉明が質問をしない限り、その流れは一方的である。
「だからさ、気体とか圧力の話だとたとえばボイル・シャルルの法則っていうのがあって、」
ふと、眼を瞑ってみる。
鼓膜を震わせる七代千馗の声は、あまり抑揚が無く、低く、静かで。地脈の流れに氣を合わせる時のあの感触に少し似ていた。
こういうのを耳触りがいいと言うのだろうか。七代の唇からこぼれ落ちる緩やかな声音に耳を浸していると、眠気さえ誘うようなひどく快い安堵感が全身に充ちていくのが判る。鼓膜から染み、胸で温められ、そうして指の先にまで隈なく広がるその感覚は本当に心地がいい。
雉明は七代の声がとても好きだ。
ずっと傍らに居ていつまでも聞いていたくなる。
だから、せんせいの口にする単語の意味が気になっても、雉明は余程でない限り質問を挟まぬようにした。此方の言葉に応えてくれる、それもとても嬉しいけれど、こうして一切何にも遮られずに七代の声音を聞き続けられる機会もそうそう無いので。
耳から流れ込んで頭蓋の中で響くその心地良さを、じんわりと味わうようにして眼を瞑り、閉じ込める。
本当にこの声が好きだ。
雉明は改めてそう思う。
「……ほとんどの物質は温度の上昇によって長さとか体積が変化するんだけど、その事を熱膨張って言って、」
ぱらりと頁をめくる紙の音が七代の声にかかる。
雉明はゆるりと瞼を上げて、すぐ隣に在る横顔に眼を向けた。
肉らしい肉のない、なだらかな頬。耳朶の下から始まる輪郭にはくっきりと骨格が浮いていて、それが顎へ伸び、首筋へと繋がっていく。
ペンを持っていない方の左手が時折触れるのは、眼鏡である。
軽く蔓に触れる所作はずり下がったものを押し上げる為のものなのだろう。流れるように切らさず説明を続けながら、七代の指先が一定の頻度でそれを繰り返していた。それは当然、眼鏡をかけていない時の七代には見られない所作だったので、雉明には何だか妙に新鮮な風に思われた。
眼鏡という視力矯正器具をひとつ加えただけで、七代が、七代にとてもよく似た見知らぬ誰かのように見えるのもとても不思議な事である。
けれど、雉明の眼に映るのはやはり七代以外の誰でもなく。七代なのに七代でないような、そんな空気を纏わせる眼鏡というものを雉明はじっと見詰めた。
眼鏡の有無に関わらない事だが、雉明は七代千馗の顔も、とても好きだった。