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局地的視界濾過装置

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然したる感情も浮かべていない時にはほんのりと低温で。微笑む時にはそれが溶けるように緩む。とてもうつくしい黒い墨色の秘法眼を猫のように細めて。そのさまを見詰めるのが何より好きだ。
笑みだけでなく、ちからを振るう時に帯びる鋭利な閃きも、眠いといってだらりと弛緩する緩さも、遠くの記憶を追って意識を馳せるような淡い色も。
七代千馗から滲む全ての表情、全ての色が、雉明には愛おしい。
きれいなばかりではないけれど、その歪さこそがうつくしいのだと思う。ひとである事のうつくしさ。ひとしか持ち得ぬうつくしさ。七代千馗のそれは本当にうつくしかった。
眼鏡の向こうで睫毛が揺れる。それに隔てられた視線が教科書の紙面に落ち、その字を辿りながら声が紡がれていく。
恐らく、何時間眺め続けたとしても、決して見飽きる事などないだろう。
雉明はひとつも眼を離さずにそう思い、そうしてその半面、何故自分がこれほどまでに七代の造作全てを好きだと思うのか、その理由について少し首を傾げていた。

「……………………、で、?」

雉明

七代の視線が突然上がり、自分の名を呼んだので。
雉明は少し驚いてその顔を見詰め直した。
七代はぱちりと眼鏡の向こうで瞬きをしながら不思議そうな表情で雉明を眺めている。

「どしたの」

訊ねられ、返答に詰まってしまった。
せんせいの言う事を聞いていなかったわけではないのだが。しかし雉明が聞いていたのはせんせいの声音であって、説明ではなかった。途中まではちゃんと理解していたと思うのだがいつから音だけを追うようになってしまったのだろうと、雉明は視線を落としてしまう。

「…………、すまない、教えてくれと言ったのはおれの方だというのに」

素直に詫びながら肩を落とす雉明の旋毛を見、せんせいは首を傾けた。

「いや…………、別にいいんだけどさ。ただどうしたのかなと思って」

上の空になっているのがもし壇燈治であったなら、せんせいは理由など訊かず問答無用に容赦無く頭をはたいているところなのだが。愛の差というよりも日頃の行いの所為である。

「なんか、気になる事でもあった? 他の教科のがおもしろそうなら普通に切り替えるよ?」
「、そうではなくて」

せんせいの言葉がとてもやさしいので。雉明は己の不誠実さに呆れ、白状する為の前置きとして溜息を吐いた。

「そうではなくて、その、……………………済まない、きみの顔を、ずっと、見ていた」

見蕩れていた

そう口にしながら、やや沈んだ雉明の眼が七代の顔へ戻ってくる。
見詰められる七代は雉明の視界の中で一瞬動作を停止させ、そうして右手に握っていた黒いボールペンと取り落とした。
ぱたりと小さな音が畳の上を転がっていく。雉明はそれを拾い上げて七代へ返したが、握り直す七代の指は何だか曖昧なままだった。

「えー……、と、…………顔? 俺の?」

この部屋には今、七代と雉明しか居ないので、雉明が見蕩れるとすればそれは七代でしか有り得ないのだが。
何故七代はわざわざ訊き返したのだろうと雉明は思い。けれどとにかく、問われたのだから頷いて応えた。

「そうだ。眼鏡をかけているきみの顔を、こんなに近くでじっと見るのは、初めてだったから。眼鏡というのはただかけるだけで、雰囲気が微かに変わるんだなと不思議に思って……」

雉明の言葉を聞きながら、七代はペンを握ったり回したりしている。

「えっと、………………………………これ、似合う?」

言うべき言葉に迷っているような素振りだったのだが、七代がようやくそう言い。雉明はまた頷いた。

「何だか少し、いつもの七代でなくなる気がするんだが、きみがきみである事には変わりがないし……新鮮な感じがして、それもいいと思う」

真剣に、己の感じるものを言葉へ変換しようと考える。言葉はうまく使わなければ伝わらない。伝えられないのは悲しい事だ。
雉明の思案を知ってか知らずか、七代は先刻やっていたように眼鏡の蔓に触れながらもうひとつ訊ねた。

「かっこいい?」
「、かっこいい…………」
「ああ、いやいや、冗談、」
「格好良い、というよりは……いや、別に格好悪いというわけではないが、そうだな、それより、きれいだと思う」

それは雉明が七代の姿を見るたびごとにいつも感じている事だ。

「き」

言葉と息を喉に詰まらせて、七代の手から再びペンが転げ落ちた。
狼狽のような驚愕のような七代のこの反応は何なのだろう。首を傾げながら雉明もまたペンを拾い上げて七代の指へ返す。

「いや……………………、えっと、まあ、……ありがとう」

七代は丁寧に礼を言った。ペンを拾うくらい何でもないのだけれど。

「…………雉明は、俺の顔が好きなの?」

雉明は頷いて肯定する。
そういえば飲んでもいいのだと言われていた珈琲がもうすでにすっかり冷めていた。けれど自分の為にと多めに用意されたものなので、雉明は頷いてからそれをひとくち飲んだ。砂糖の入っていないものなのだがほんのりと淡い甘さを感じるのは何故なのだろう。

「言い表わすのが難しいが……、凛としていて、けれどやわらかくて、とてもきれいだと、いつも思う」
「うーん」

雉明の好きなその顔のおもてに僅かな困惑を乗せて。そのまま七代は微笑んだ。

「きれい、っていうなら、雉明の方が余程色々、きれいだと思うけどね俺は」

顔を確かめるようにさらりと、七代の指が雉明の前髪を浚う。

「、おれが?」
「そう。知らなかったの?」

自身の造作についてはあまり関心らしい関心もなかったし、何かしらの評価を得た覚えもあまりなかったので雉明は、ただただその言葉に首を捻るしかなかったのだが。
髪を浚いながら七代は、雉明の鼻先でふと息を抜くように笑った。密やかな笑みだ。

「判らない」
「そう?」
「きみの事をきれいだとは、思うんだが」
「俺も、雉明の事をきれいでかわいいとは思うけどね?」
「……自身の事は、判らないんだな」
「まあ、そんなものなのかも」

七代の指先が髪から離れ、頬の上をゆっくりと伝い、顎の輪郭に触れる。

「まあとにかく、雉明は俺の顔が気になって、上の空になっちゃったんだよな?」

ゆるゆると擦られるその感触がくすぐったくて、片眼を閉じてしまう。

「すまない。折角教えてくれているのに」
「いいよ、別に。雉明に勉強教える機会なんて幾らでもあるし。それより、」

それよりも

眼鏡の向こうで黒い眼が細くなる。
雉明の好きな笑みのかたち。雉明の胸に痺れと疼痛をもたらす不思議なものがすぐ眼前に在って、それは更に互いの距離を詰めようとしていた。

「どうしても俺の顔が気になるなら……物理じゃなくて、別の事しようか」

七代の唇が雉明の頬に触れ。同時に硬い眼鏡の隅が少しぶつかった。

「せんせ、い」

雉明が呟くと、眼許から眼鏡を外しながら七代が面白そうに笑う。

「……それ、なかなかいいなあ。ごめん、今だけそう呼んで?」
「、ん」

七代少し嬉しそうな顔をしたので雉明はもう一度そう呼んでみようと思ったのだが、その声音は七代の唇によって奪われてしまった。
作品名:局地的視界濾過装置 作家名:あや