旬
抱き枕カバーの女の子は毎月のように替わる。
マスターは今夜も帰って来ないつもりだ。
また今日も違う女の子になった抱き枕をそっと抱きしめて、ベッドの上で来ない人を待つ。
何も臭わない部屋。何もない床。
けばけばしさを主張する棚の中には物が詰め込まれることなく、代わりにその前に段ボールがでん、と二つ積み上げられている。その上にはうっすらと、埃。
『最優秀賞』を取ってから、マスターは変わった。
最初は会話をする時に吃ったり、赤面して俯くようになった。
でもそれはほんの少しの間だけで、すぐにいつも通りになって、そしたらそれまで感じていた会話の時のもどかしさがなくなった。
作品を語る時みたいに流暢に話してくれるようになって(それでも他の人たちよりは随分ぎこちないが)、時には愛想笑いをするまでになった。
その愛想笑いが増えていくにつれ、黒や茶色以外の服も着るようになった。使い古した服を捨てるようになった。
その代わり、帰りが遅い。
何でも同じ趣味の人を見つけて、仕事以外にオフ会や合同や主催というのをしょっちゅうやってるらしい。
しょっちゅう。そう、しょっちゅうだ。
帰って来ない日もある。外へ出るのを嫌がったのはずっと前の話だ。
気付けばベッドで寝ていて、目を離すといなくなる。
ともだち。からおけ。の、のみ、かい。
抱き枕をぎゅううっと握る。
もう、疲れた。
頭に浮かんだその言葉は、一瞬後に予期せぬ重みを持ってお腹に沈む。
頬の辺りから自分がどろどろと溶け出しそうな感覚に襲われながら、ゆっくりと瞼を閉じかけた時、玄関でがちゃがちゃと物音がした。
途端にそれまでの気分がパッと霧散する。
気付けば玄関へと駆け出していた。
「ただいま」
廊下の先には待ち侘びてたそのマスターの、姿。
「お、お帰りなさい」
変わってしまったマスターに対して、私は何故だか前みたいに叱り付けることができない。
私もまた変わってしまったのかも、しれない。
それが少しもどかしい。
「マスター、あのね、今日はね」
「ミク。ちょっとお願いがあるんだけど、いいかな」
「な、なに?」
マスターが私にお願い?
嬉々として促すと、マスターがごそごそと懐から財布を出した。
「少しの間だけ外に出ててくれないか。3時間、2時間でいい。ほら、お金だ。使い方はわかるだろ?」
笑顔が凍った。
それでも精一杯口を動かしたのは、最後の意地だったに違いない。
「マスター、私はこのPCの半径1キロから離れることができないんです……」
「じゃあ1キロ離れてればいいだろ!」
しかし、全てはマスターの怒号に掻き消された。
見上げるマスターはあんなに一緒にいた、あの時のマスターではもはや、ない。
もう違うんだ。
痛切にそればかりを悟ると、目元からつうっと、雫が落ちた。
「早く行けよ!」
「承認、しました」
胸元に突き付けられた札束を受け取り、裸足で玄関から飛び出した。
扉を開けた瞬間に、清楚な出で立ちの女の人が視界に入り、無言で俯く。
それでも速度は落ちない。
右に左に、無我夢中で走る。
走りながら、ああ今の私は、暗い暗い海の底へ沈んでいるのだと思った。
道路を走る車の音も人の話し声も、遠く海面に轟く波の音。
扉を開けた瞬間から飛び込んだ深い海。暗い闇。その中をとにかく走る、もがく、沈む。
段々海の底へ沈むんだ。
ぐるぐる回る。
軌道を回る。
静かに沈む。
ゆらゆら沈む。
ともだち。からおけ。のみ、かい。