欠けた彼女と混濁した彼と
先祖返りの彼と混濁した彼と
約10年前 埼玉某所
紀田正臣はその日まで自分のことをただの人間だと信じて疑わなかった。自分が人間ではないかも知れない、などとは考えもしなかったから、信じていたとすら言えないのだろう。とにかくただ少しばかり喧嘩が強かったり、少しばかり体育の授業で目立てたりするだけで、それはちょっとした優越感になりはしても自分の素性を疑う要素にはなり得なかったのである。
それ故、彼にとって"その日"は何の前触れもなく訪れた。
学校帰りに横を通った車から手が伸びてきて車内に引き摺り込まれ眠らされ、目が覚めてみれば知らない場所だった、端的に言えば誘拐されたのである。しかし彼には誘拐される覚えが全くなかった。家は貧乏ではないが金持ちでもなく、両親は共働きで、当然ながら子供の自分に期待するものなど有り得ない。
「放せーッ、家に金なんかないぞーッ、人違いだーッ!!」
喚いても誰もいない狭い空間に虚しく響くだけだった。
「ンの、正臣様をナメんなよッ!」
後から考えれば随分と無鉄砲な子供だった。閉じ込められた部屋の扉を蹴りつけ、どうにか開かないかと奮闘する。開いたところで誘拐犯に見つかってお終い、とは考えなかった。今まで誰が相手でも喧嘩で負けたことがない故に自信過剰になっていたのかも知れない。大人だろうがぶっ倒す、無茶な考えである。
「出せーッ!!」
ガン、ガン、と金属の扉を蹴りつける上に子供特有の高い声、
「煩ぇ!!」
ドガン、と怒声と共に反対側から扉を蹴られ、そこでようやく正臣は怯んだ。怯んだついでに怖くなった。
――ここはどこだ
――何でこんなところにいるんだ
――そもそも何で誘拐されたんだ
怖くなると泣き出すのが子供だったが、辛うじて正臣は泣かなかった。泣くより恐怖から逃げることを優先したのである。
扉が駄目なら、と周囲を見回すと通風孔があった。お約束の展開ならばそこから逃げるのだが生憎と子供の届く高さにはなく、都合良く荷が置いてあるということもなく、お約束を諦めたその瞬間、通風孔の金網がボロボロと崩れた。驚いて声も出ない間にそこからヒョコリ、と顔を覗かせた人物は、正臣を見つけると人差指を立てて口に当てた。静かに、ということだろう、正臣は口を手で覆う。よし、と首を縦に動かした闖入者は音もなく床へと降り立つ。随分と若いようだったが、暗灰色の背広を着ていてネクタイまでキッチリと締めている。通風孔から出てくるような恰好ではなかった。
「紀田、正臣君?」
小声の質問に正臣が頷くと、中学生くらいだろう少年はニコリ、と愛想良く笑う。
「説明は後でするから、今は逃げるよ」
返事を待つこともなく、少年は正臣を通風孔まで押し上げる。
――あれ……? この兄ちゃんの身長で届く高さだったか?
疑問に思うも、静かにと言われたので訊くことも出来ず、部屋より狭い通風孔の中をひたすら移動する。何度か上るような構造になっているその先にある出口は、屋上だった。星のない空には満月に近い月が浮いている。夜風のせいだろうか、少し身体が震えた。
「って屋上に出てどーすんの!? 逃げ場ないじゃん!!」
「逃げ場ならあるよ。……あるんだけど」
正臣を庇うように下がらせ、少年は階下へ通じる扉を睨みつける。バタン、と音を立てて開くと同時に男が10人程、屋上へと駆け込んできた。どうやら彼等が誘拐犯で、正臣の脱走がばれたらしい。背筋に悪寒が走った。
「誰に頼まれたか知らねぇが、大人しくそこのガキ渡しな。でないとテメエも売り飛ばすぞ」
「頼まれたわけじゃありません、発案も計画も僕です」
悪寒は足元から発せられている、つまり少年の影から。
「密売者を摘発、及び僕達の視界から消え失せて貰おうと思いまして」
男共には見えていないようだったが、それは確かにヘビの形をしていた。ゾゾゾ、と大量の蛇が蠢いては少年を守るように誘拐犯共へと口を開く。妙な光景に正臣の心臓がドン、と鳴る。
「煩えガキが!!」
1人が鉄パイプで少年へと殴りかかるが、少年の吹きつけた無色透明の澱みが鉄パイプを崩してしまった。再び心臓がドン、と鳴る。
「テメエ!!」
一斉に拳銃を構えてくるが少年の吐く青白い炎の熱で銃身が過熱され、銃は熱に負けた手から次々と取り落とされる。また、心臓がドン、と脈打った。
「ところで良い月夜ですね」
唐突に少年は言う。正臣の手がカタカタと震えた。
「古来より人狼や人虎の類が月と共に描写される話は少なくありません。きっと何か関係があるのでしょう。僕は残念ながら彼等とは異なる存在ですので、正確なことは分かりませんが」
言葉を発する少年が違うなら、そんな眼で男の1人が正臣の方を見る。
目が、合った。
ド、と心臓が爆ぜる。
「う、ああああああああああああああ」
叫び声を上げて正臣は男へと飛びかかった。瞳孔が細くなり、犬歯がやや伸びて、爪が鋭くなるのが確認せずとも感じ取れる。
「人獣は強いですよ、とても」
意識がはっきりとした時には、大の男全員を昏倒させていた。
正臣の父親にも母親にも人獣の血が流れているのだそうだが2人に自覚はない。彼等は血が薄いので問題はない。しかし正臣は劣性因子を揃えるようにして先祖返りを起こしてしまった。それをどこからか聞きつけた人外の者を密売する輩に狙われ、密売人を追っていた少年達に知れたために救出された、それが今回の事件の全容だ。
「俺、人間じゃないの?」
己の能力を体感した正臣の手は、少しの優越感と多大な不安で未だ震えが収まらない。少年は苦笑した。
「君の好きなように振舞えば良いよ。一つだけ言わせて貰うなら、君には人としての権利が一生分保障されてる。それをわざわざ捨てることはない、と僕は思う」
ゆっくり考えれば良い、と少年は銃器不法所持として警察に男共のことを連絡した後、そう言った。
「爺さんみたいだな」
「うん、これでも80歳過ぎてからね」
ウッソだぁ、と正臣は笑った。下手な冗談だと思ったのだ。
「アンタ、名前は?」
思い出したように問う正臣に少年は竜ヶ峰帝人と名乗った。
「みかど! どうやってここから逃げるんだ?」
正臣からは恐怖が消えていた。大人複数を倒して怖いものなどなかったのである。そんな正臣を背負うと、帝人は13階建てのビルのフェンスを飛び越えて、
「こうやって」
そのまま落下した。
作品名:欠けた彼女と混濁した彼と 作家名:NiLi