きみは神さま
「でもね、俺と同じ職場の奴だからってホイホイ開けちゃだめじゃないか。
今時強盗だって口先三寸で身分詐称するんだからさ」
ぐにー、とほっぺたを引っ張られる。
「い、いひゃいお、いじゃやく…」
「不用心な帝人くんの言うことなんて聞けませーん」
そう言いながらもぱっと手を放してやる。
ひりひりしている頬を抑えて涙を浮かべる様を楽しげに見やる様はいじめっ子そのものだ。
それを恨みがましい目で一瞥した後、何か思案し決心がついたようで
するりと本物の猫のように兄に自分の身体を寄せる。
「…帝人?」
「……ごめんなさい、ありがとう」
抱きついたまますり、と頬を胸に寄せる。
兄の肩がびくりと強張る。自分から頻繁に接触をしてくるわりに
人からされるのは緊張するんだろうか。
薄く、しなやかな胸板の中でどくどくと少し早い鼓動が聞こえてきた。
「……み、」
「僕はまた兄さんに迷惑かけちゃったね…」
「……『兄さん』はダメだって言っただろ」
「うん、臨也くん」
お決まりの言葉と共に背中に優しく腕が回される。
彼は自分が『兄』と呼ぶことを嫌う。いや、嫌うというより悲しむというほうが正しい。
幼いころは全く何の躊躇もなくお互い名前で呼び合っていたのだが
思春期に差し掛かるとそれが気恥ずかしく感じられ、『兄さん』という世間一般の呼称を使ってみた。
初めてそう呼んだ日のことを覚えている。
朝の挨拶と一緒に投げかけたそれを一度彼は聞き流し、違和感に気づいて反芻した後コップに牛乳を注ぎながら時を止めた。
おかげで買い換えたばかりのテーブルクロスが大惨事になった。
慌てて雑巾で拭う自分の手をガッと掴んで「なんで、どうして、反抗期なの?もう俺のこと臨也くんって呼んでくれないの?
盗んだバイクで走りだしちゃうの?」
とぽろぽろ泣きながら詰め寄ってきた兄はとても動転していたのだろう。
結局紙パックの牛乳2リットルをコップの体積分残して全てテーブルにぶちまけてくれた。
「い、臨也くん!とりあえず手を、手を止めて!とりあえず牛乳置いて!」という悲痛な自分の
訴えは全く耳に届いていなかったらしい。
平面を液体が伝い流れて落下し、木製の床にしみ込んでいくという悲劇的光景を黙って見つめることしかできなかった。
あのあとちょっと臭いが取れなくて大変だった。
そんなこともあり、何故兄と呼んではいけないのか心底首を傾げたので率直に聞いてみることにした。
回答は実にシンプルで
「だって兄弟みたいじゃないか!」
ということらしい。兄弟みたい、も何も自分たちは兄弟だ。
もしかして実の兄弟ではないという意味だろうか?と思い恐る恐る尋ねてみると
「こんなに可愛い子が俺の弟じゃないはずないよ」
と二重否定された。ますます意味がわからなくなった上面倒くさくなったので
それ以上深い追求はしないことにしている。
それでも他の人の前では極力兄と呼ぶようにしているので
時折当人の前でもそう呼んでしまう。
それで文句を言われたら非常識とバカにされるのは嫌だと突っぱねる気概でいるが
今のところ問題は起きていない。
すっかり大きくなり、べたべたとしたスキンシップを取ることに
羞恥心が働くようになって以来、こうしてくっつくのは本当に久しぶりだ。
小さな子どもの時のように兄の胸にもたれて、抱きしめられる感覚は全ての不安を拭い去り、
とても強い安堵を与えてくれるものだった。
そっとしっぽも彼のそれに絡めてみる。兄弟の証、異端の表れ。
「…帝人くん、どうしたの?まだ怖い?」
「ううん、会えたの久しぶりだから」
忙しいことはわかっている。
でも我儘なんて言えるわけがない。
愛されていることは知っている。
それでもこれ以上、彼の時間を奪うことはしてはいけない。
さびしいなんて思ってはいけない。
「帝人くん、おまじないしようか」
「え?」
突拍子もない台詞に顔を上げると目の前に兄の顔がある。
背に回された両腕の片方が僕の頬を優しく撫でた。
そのままひとつ、柔らかく唇を重ねられる。
「健やかなるときも、病めるときも、喜びのときも、悲しみのときも、
富めるときも、貧しいときも、これを愛し、これを敬い、これを慰め、これを助け、
その命ある限り、真心を尽くすことを誓いますか?」
紅い瞳が僕を写しこんでいる。
僕の蒼い瞳が、兄の瞳の中では紅い。
それが何だか嬉しくて仕方なかった。
「…誓います」
ああ、ますます小さい時に戻ったみたいだ。
両親のいない僕にとって兄が世界の全てだった。
耳付きという特殊な身体に生まれてしまった僕たち兄弟は
たぶん普通の孤児よりもずっと厳しい環境にいた。
それでも僕があまり捻くれなかったのは
そうした怖いこと、辛いこと、酷いことからも
全て兄が守ってくれたからだと思う。
実際に僕の健康を見てくれているお医者さんは
「よっぽど大事に育てられたんだねえ、箱入り息子とはこのことだ」
と言っていた。
そうなんだろうと思う。
箱入りという言葉は世間知らずで、苦労を知らないひとに使われる。
あのお医者さんは兄の友人だから悪意あっての言葉じゃないと思うけど
やっぱり皮肉めいた言葉だと思うのだ。
今ならこの『おまじない』が結婚式のときに使われる常套句だというのがわかる。
何を思って兄がこれを始めたのかはわからないけれど
大抵このおまじないをするのは僕が酷く泣いた時だった。
兄は頭がいいけどどこかずれた感覚の持ち主だから、
家族の絆の証としてこれを用いようと思ったのかもしれない。
「もう怖くないよ、俺がいるでしょ」
「……臨也くんがいると別の心配があるのでそれもまた問題です」
「えっ、どこが?」
「①お布団がずっと仕舞ったままで干していないので今日の臨也くんのお布団がありません。
②今日はお買い物をしていないので臨也くんの夕食がありません。
③当然ながら朝ごはんもありません。
それから…」
「ちょ、ちょっと待った。
そんなの全然問題じゃないよ!①今日帝人くんと一緒に寝ます。②久々に外食しよう。
③朝も市場をぶらついてカフェでとればいいと思います。
帝人くんもさあ、たまには夜早く寝て早起きしようよ」
「い、臨也くんにだけは言われたくない…!自分こそ究極の夜型じゃないですか。
寮に入る前までは寝起きが最悪で散々僕に当たった癖に」
「えー、もう昔の話でしょ。今はちゃんとコントロールできるもーん」
◇ ◇ ◇
ねえ新羅、君は神の存在を信じるかい?
このいつ落ちるともわからない薄氷みたいな国の上でさ、
絶対なんて存在があると思うかい?
紅い色彩はまるで堕ち逝く星のようだと思った。
黒い髪がまるで夜空のように艶めいている。
薄暮の中、白い世界で僕らは世界を見下していた。
あの時の光景が今もなお時折蘇り、そのたびに僕は自らの幼稚を懐かしむとともに
彼の『神さま』を語るときの横顔が、
彼の言葉が、
光と爆ぜて空に溶けていったのをたとえようもなく羨ましいと感じるのだ。
がつがつと床を削る勢いで誰かの足音が近づいてくる。
ああいやだなあ、今日は一段と不機嫌そうだ。
せっかく新しく揃えたカップも不燃ごみとして出す羽目になりそうだ。