きみといっしょ
窘める、幾分か調子を落とした声が少年の耳に入り込む。静かに落とされる言の葉は普段怒鳴り声でしか耳にしない少年にとって新鮮なものだった。その中に気遣わしい色が含まれていた事もあり、少年にはますます、この目の前の人影が悪人であるようには見えなくなっていた。
「その点は大丈夫だ。俺は人を見る目?、があるんだそうだ。兄さんが言っていたから多分そうなんだろう!」
胸を張る少年は誇らしげに笑った。梃子でも自分の考えを撤回させる気が無いのだと感付いた人影は1つ小さな息を吐き、ゆったりと垂れる袖を上げて少年の頭に手を置き、撫でた。
「お兄さんが大好きなのですね。」
「・・・あぁ、そう、だ。でも、兄さんには内緒にしてくれ。恥ずかしいから!」
人影の指摘に打って変って言葉に詰まり赤面して俯いてしまった少年にクスクスと声を上げて笑った影は、少年の足元に置かれた籠を持ち上げた。
「えっ?」
「御招待して下さるのでしょう?荷物持ち位させて下さい。」
貴方のお家はどちらですか?、愉しげな声に少年は自身の主張が通った事に気付き、嬉しそうに顔を綻ばせた。
「俺の家はこっちだ!あっ、そうだ、忘れていた。俺の名前はルートヴィッヒ・バイルシュミット。名前で
構わない。貴方の名前は?」
少年が隣に並び立ち歩幅を合わせた影は少年を見て、返した。
「私の名前は本田菊。此方の慣習に則るとキク・ホンダです。キク、と呼んで下さい、ルートヴィッヒさん。」
涼やかな声音が、少年、ルートヴィッヒの名を呼んだ。
「・・・ルッツ、ソレ、何処で拾って来たんだ。」
弟の帰りを自宅のテーブルにつき待っていた青年は、帰着早々弟に向かい眉を顰めた。正確に言うなれば、弟を通り越して後方に、だが。後方に佇む人影は居心地悪そうに身動ぎ、言の葉を唇に乗せようと開くのに一瞬早く、荷籠を手渡す為青年に寄った少年が顔を綻ばせて言った。
「帰ってくる途中で会ったんだ。困ってた俺を助けてくれた人なんだ、悪い人じゃない。」
ほら、差し出された籠を受け取って青年は怪訝そうに少年を見たが、次いで見遣った籠の盛り方が常のソレでは無い事に、天性の勘の良さを持ち合わせた青年は弟の言わんとしている事を何とはなしに悟った。が。
「だからって、簡単にホイホイ持ち帰るな、って俺、言ってるよな?大体、ソイツが危ない奴だったらどうすんだよ。怪しい奴に近寄んな、何かあったらどうすんだ。」
青年の主張に人影が縮こまる気配を感じた。申し訳無さそうに項垂れる人影を弁護するように、少年は顔を赤くして兄に食って掛かる。
「俺の人を見る目は正しいって言ったのは兄さんだ!キクさんは悪い人じゃ無い、キクさんに謝ってくれ!!」
「ルートヴィッヒさん、良いのです、お兄さんは正しいのですよ。」
それまで黙っていた人影が控え目に口を挟んだ。発される音は低く、あぁ男なのか、女だと思っていた、と見当違いな感想を抱いた青年は人影に目を移した。
「突然お邪魔して申し訳御座いませんでした。不快な思いをさせました事、心よりお詫び申し上げます。彼はただ私の話し相手として少しの時間付き合って下さっただけなのです。どうか、彼をあまり叱責しないであげて下さい。」
丁寧な言葉に付け加えて深々と頭を下げた影に焦ったのは少年だ。口上は難しく理解の届かない部分もあったが、彼の行動が自身を庇うものなのだと兄譲りの勘の良さで気付いた。
「キクさん!止めてくれ!俺が悪いんだ、だから、キクさんは悪くない。」
「ルートヴィッヒさん、お兄さんは貴方を心配してあぁ仰っているのですよ。ですから、あまり心配を掛けてはいけません。私の事で良い教訓になりましたでしょう?」
「でも!」
尚言い募ろうとする少年の肩を掴み、青年は椅子から億劫そうに立ち上がると弟を背に追いやって人影を見据えた。
「お前等の言い合い聞いてると日が暮れそうなんでな、遮らせて貰う。先ず、どう言う経緯かは知らねぇが、弟が世話になったみたいだな。礼を言う。」
「それは違います。寧ろ謝罪せねばならぬのは私なのです。前方不注意で彼にぶつかってしまったのは私なのですから。申し訳御座いませんでした。彼の帰宅が遅れたのは偏に私の責です。」
「そうかよ。取り敢えずルッツに怪我は無さそうだし、それは置いておくぜ。で、アンタは何処の誰だ?」
「はい、申し遅れました、私、本田菊、と言う者です。此方ではキク・ホンダと発音致します。行脚をしながら世界を回っております。此の度は偶然知り合った縁と言う事で弟君が周辺を案内して下さるとの事、軽率に彼を連れ回してしまいまして、済みませんでした。」
何処までも低い姿勢の人影が微かに頭を下げ、スッと流れる動作で元に戻した。その時見えた一瞬の色に、青年は息を詰める。ふわりと空気が入った為に浮いた個所から窺い知る事が叶った色は青年の動きを止めるに値した。突然不審な行動を取った眼前の人物に人影はコトリと首を傾げる。と、兄の行動が不可解だったのか少年は握っていた青年の衣服の裾を引き、青年の意識を自分に向けた。
「あのな、兄さん、キクさん、東から来た人なんだって。」
少年の発した言葉は、先程自分が受けた衝撃を兄とも分かち合いたいと言う、純粋な望みが含まれるモノだった。その言は、青年の立てた仮説により一層の真実味を肉付けした。
「じゃあ・・・アンタ・・・もしかして・・・」
切れ切れに発し、信じ難い物を見るような眼差しで人影を見詰める彼に人影は幾分か纏う雰囲気を和らげ、小さく溜息を洩らした。そこには、僅かな諦観の意が含まれていた。
「御察しの通りですよ。」
言って人影は頭部を覆う白色の布に手を掛ける。シュルリ、衣擦れの音と共に滑り落ちた布の下で露わになったのは、太陽光を受けて艶やかさを増す濡れ羽の髪と、黒曜石を埋め込んだかのような美しさの瞳。伝説と称され、その存在自体空想だと信じきっていた青年の前に居るのは、現人神の一族だった。紛い物だろうか、未だ瞠目したままの心情を察し、影は背負っていた荷を解くと、青年の前に翳した。
「・・・なん、だよ・・・」
高潔とされる紫に華美になり過ぎぬ程度に装飾された布は見た目麗しく、それだけで上等品なのだろうと知れた。その布に覆われた部分を、クリーム色の骨ばった手が丁寧に外していく。完全に取り払われたそこには、今はもう存在せぬ、歴史上でしか御目に掛かれない代物が厳かに隠されていた。
「これ・・・"ブック"か・・・!?」
"ブック"、それは紙媒体で記された時を綴る書物。今は昔に起こったあの大きな戦により、殆どの書が消え去ったと聞く。以来紙は重要文化財として指定され、それらも一枚一枚の紙片でしか無く、こうした集合体で残されているなど先ず考えられない。それが可能なのは、そしてそのブックを持ち得る可能性があったのはただ1つ、俗世から離れ戦の凄惨さと矮小さを憂い嘆いて身を隠した彼等一族のみのものだった。つまり、コレを手にしている時点で、彼の存在が本物である事の確定になるのだ。