きみといっしょ
が、菊の望む望まずに関わらず世界は回る、嫌と言う程分かっていた。戦争は人の歴史の最も表に出易い部分であると言うこと。人間と言う種族は、過ちを学習しない。手酷いしっぺ返しを喰らった後は大人しいが、暫くすればまた忘れてしまう。優劣を望む声が上がれば、即ちそれは戦いの産声となるのだ。菊が世話になっているバイルシュミット兄弟が居を構える地域は、あまり政治的に安定していない地域であった。その主たる要因は、ここから先そう遠くない所で、国同士の戦が展開されているからだった。上手く隠れた地理にひっそりと存在する村は敵方には知られていないようだったが、そのせいもあり武装した軍人が時折村内を闊歩したり、平和で穏やかな村に相応しくない銃や鈍器と言った凶器が多々見受けられる事もあった。そして近辺では、兵役が法で強いられている。この村が所属している国の現王は良とは言い難く、教養もそこそこながら、無駄に野心だけは高い男だった。その時々の王により国政が変革すると言うのは本来ならばあってはならぬ事なのだが、国王と言う立場に逆らえる国民はそうそういはしなかった。現在の国王に代わって幾年になるだろうか。王の椅子を争ってやはり国内が荒れる事も屡だが、隣国との戦争を強行したのは、此度の王に代わってからだった。前王は歴代の中で珍しくも穏健派であり、他国の侵略を受けぬ限り兵力は翳さない、を信条に国内を治めていた。前王は確かに良き王だった。ギルベルトはこの国王を尊敬していた。そう言った経緯もあり形ばかりでしか無かった兵役だったのだが、前王の逝去後腰を据えた現王が、静寂を破って侵攻を開始した。直ぐに城内の手勢が薄くなり、兵役の施行が現実化した。兵役となれば成人男性は御触れが出れば戦地に赴かねばならない。ギルベルトは、そうした年齢の境目に立っていた。戦に掛ける費用は莫大だ。兵器の投資を行う為に民衆から多額の税を取り立て、それに当てた。にも拘わらず、民間から集った兵役の若者の武装は、自己調達と言う、非道にも程があるものだった。辺鄙な地ともなればまともな武器はおろか、装備すら侭ならない。王は言うのだ、国の為に尽くしてくれと。その瞳は、手駒なのだからその程度は当然だと言った。ギルベルトは死ぬ訳にはいかなかった。彼にはまだ幼い弟が居る。周囲の家々になど、可愛く愛しい弟の世話は頼めない。彼等とて日々自己の生存に手一杯で、どう言った扱いを受けるか分かったものでは無い。その心情を、菊は良く理解していた。だからこそ、戦で必要な事を兄であるギルベルトには教えた。武器の扱い方、戦法、救護法、様々な事を。それらは全て、生き残る事を前提としたものだった。卑怯だと罵られ指を刺される生を覚悟の上で、弟の為に生きて帰る事を選んだギルベルトに、菊は精一杯知恵を授けた。この教授を、ルートヴィッヒは知らない。夜寝静まり月が高く上った頃、菊とギルベルト、2人きりの授業は始まる。月光だけの頼りない明かりで、息を潜めて彼等は夜を超えた。
そして、その時は日々の中に紛れてひっそりと、やって来た。
ルートヴィッヒは既に布団の中だ。耳を澄ませば安らかな寝息が聞こえる。その隣室で、ギルベルトと菊はテーブルに着き黙している。ギルベルトは両手を組んでその上に額を乗せたまま、年季の入った木目の机の上を睨んでいる。そこに置かれているのは、出兵要請書だった。菊は普段であれば甘やかな笑みの乗る貌を苦痛に歪めてギルベルトを見ていた。何かを言おうとして、言葉を発する事無く唇を閉じる。来る日を想定し、2人は万全を期す為あらゆる準備をしてきた。家の周囲にある道具を用いて少しでも防御に回せるような武装を考え、また武器も改良した。しかし、心得はあれども、いざ現実を目の前にするのは、やはり怖いものがあった。ギルベルトはきつく眼を閉じ、唇を引き結んだ。次いで、瞳を開け顔を上げる。菊を見るギルベルトの瞳には、恐怖を虚勢で塗り潰した色の他、云い知れぬ覚悟の様が浮かんでいた。
「・・・キク。」
「はい。」
「頼みが、あるんだ。」
言って机上から両手を下ろし、ギルベルトはしっかりと腹の前で再度組んだ。研ぎ澄まさねば分からぬ程に抑え込んだ震えがこれ以上漏れ出ない為に、爪が食い込み血が滲む程、強く握りしめた。これからの一言は、ギルベルトにとってそれ程の勇気と覚悟を要するものだった。
「俺が、王宮に連れてかれたら、ルッツを連れてこの家を出てくれないか?」
「・・・・・・え?」
内容が信じられず驚きを隠さない声音の菊だったが、まさか冗談を言っているのではあるまい、ギルベルトの表情は発言を虚言だと流せるようなモノではなかった。
「お前なら、信用出来る。アイツを一人で置いて行く事なんて出来無い。なぁ、頼むよ、キク。アイツを、俺達を助けると思って、頷いてくれないか?」
懇願と絶望が押し寄せる深紅はその苦悶故酷く美しく見えた。菊の黒曜石に薄らと水膜が張る。
「な、にを馬鹿な事・・・大丈夫ですよ!貴方はきっと帰って来れます!貴方の帰還まで、私もルート君と一緒に待ってますから。」
「俺だって帰って来てぇよ!」
激情に任せて叩き付けた拳が静寂に響く。ハッ、として隣室の気配を辿るが、身を捩り呻いた声が聞えただけでどうやら眠っているようだった。
「・・・俺、だって、まだ、死にたくねぇ・・・。でも、お前だって、分かってんだろ。この国が劣勢らしい、事位、よ。」
当初快勝に酔っていた当国だったが、どうやら隣国に支援の手が上がったらしく、立場が一気に逆転してしまった。次々と溜まる訃報、不利な戦況。運良く生き延びた所で捕虜として扱われる可能性も捨て切れず、家族の下に置き手紙を残して戦地で散る者が多いのだと。
「俺は、きっと、帰って来れない。だから、アイツを俺の代わりに育てて欲しい。国の為に殉職する気はねぇけど、ルッツを守って死ねるんなら、それも良い。」
力無く浮かべる笑みは諦観のソレだ。菊が永く経て来た時の中でも最も辛い笑みの類だ。キュッ、と菊は唇を噛み締めた。ふるりと震えた睫毛が影を作る。目に溜まっていた滴は、何時の間にか消え去り、決意を秘めたギルベルトに違わぬ程決然とした光を宿した闇が、眼前の青年を見据えた。これは、最終手段だった。こんな時など来なければ良いと心の底から願いながらも、理性の奥底ではそうなった場合に取り得る手。菊が抱いた優しい感情は、2人を救う為の最善の方法を、無意識の内に弾き出した。コレを告げたら、実は情に脆い兄の彼は端正な顔を歪めて怒るかもしれない、が、その気持ちは恐らく決意を後押しする結果になるだけだろうと、菊は思った。
「・・・ギルベルトさん。」
「・・・なんだよ。」
「1つだけ、貴方が戦地へ行かなくて済む方法が、あるんです。」
菊の言葉に、ギルベルトは美しいルビーを極限まで見開いていた。その表情はかつて菊が彼に正体を明かした時に浮かべたモノと同じで、情の移ってしまったのはきっと私ですね、心の中で菊は苦笑した。菊は穏やかな心持で、優しくギルベルトに言った。言い聞かせるような声音だった。
「私を、王宮上層部に売って下さい。」
「!?」