No Rail No Life
きゅ、と遠慮がちに繋がれていた手には力が加わって。
うん。一緒に。
答えた自分の中で、確かにその時、何かが動いたのだと思う。
そして今となってはたくさん増えた薄紫の小さな花を、春先、線路脇に眺める度、その思い出がいつも鮮やかに蘇るのだ。
そんな時はいつも、どこか甘い痛みが胸にあって、ああ、きっとこれは恋なんだ、と、ゆっくり時間をかけて理解していったのだった。
唇の動きはまるでスローモーションのようだった。
へたりこんだ東上の視線の先、有楽町は確かに、こう唇を動かしたのだ。
オレは、お前が好きなんだ。
東上は瞬きさえ忘れて有楽町を見つめていた。
スキ？ スキって、なんだ？
ぽかんとしている東上に何を思ったか、有楽町が踵を返そうとする。相変わらず顔はよく見えなかったけれど、そんなのは体の動きを見ればわかるのだ。
「…っ」
咄嗟に、東上は有楽町の足を掴んでいた。逃がしてはいけない気がしたのだ。
いつも穏やかに笑っていて、誰とでも仲良くできて、仕事は真面目で成果もきちんとしていて、――
「そう」ではない有楽町が今ここにはいて。驚きはしたけれど、今を逃してはいけないと思った。
そう。そんな完璧な奴、いるわけがないのだ。
そして今目の前にいるのが等身大の有楽町なのだとしたら、今なら、気後れしないで目を見返すことも出来るはず。
ピカピカの革靴、糊の利いたワイシャツ、皺の見当たらないスラックス、寝癖ひとつ、無精ヒゲひとつ見つけられない容貌も、みんな有楽町の表層を構成するものであって、けして本質ではないのだ。それらはみなめくらましのようなもの。
「…東上？」
困惑したような声に、東上はなんだか泣いてしまいそうだった。
でも、胸をぎゅうっと掴んで懸命に口を開いた。声は震えていた。
「お前、勝手た…っ」
息を飲むような声がした。東上は手が白くなるほどに手をにぎりしめる。
「ばか、おれだってお前のこと、す、すき、なんだ、から、な…！」
「…、え？！」
「ば、ばーっか！な、なめんなよ、おれなんかな、おれなん、」
足を掴んでいた手が宙を舞った。全部言い切る前に、東上はかばりと抱きしめられ、その腕のあまりの強さに言葉どころか息さえ一瞬止めてしまった。
「東上、…東上」
まるで小さな子供みたいにぎゅうぎゅうと抱き着いてくる有楽町に、東上も一瞬どうしていいかと固まったのだけど。
けれども、なんだか胸がほわりとしたので、抱き着いてくる有楽町の頭を不器用に撫でてやる。
見つけた、と思う。
ケチのつけようのない男だって、何もそれが本当の姿とは限らなくて。本当は東上と同じようにヤキモチやきで、勝手で、わがままで、だけど嫌われないように隠しているのだ。
「 」
「え？ …！」
その発見に気が緩んで、油断していたのかもしれない。
耳元でなんと囁かれたのか、聞き取れなかった。
だから言葉を追うように顔を上げたら、聞き返す前に唇が塞がれていた。
目を閉じることも出来ずにいたから、有楽町の閉じた瞼や金色をした睫毛が間近に見えて、…あまりのことに脳みそが限界を超えてしまったらしく、その後のことはあまり覚えていないのだ。
お互いにお互いが好きなんだと白状して、じゃあ何が変わったか、そう言われたら、実はそんなに変わらなかった。
毎日同じようにラッシュアワーは混雑し、大きな事故こそないまでも全くトラブルがないわけでもない（ちなみにトラブルには武蔵野を含む）。
それでも。
ちょっとした瞬間に強引に手を引いたり、人目を盗んでキスしたり、そういったことに対して湯気を立てんばかりに怒ったり。宥めたり、また明日、そう約束して指を絡めたり。
ほんの些細なことではあるけれど、それ以前とは何かが大きく変わったのだ。
そんなふたりには最近秘密の暗号が出来た。
護国寺ならYes、有楽町ならNo。
護国寺は１１番、有楽町は１８番目の駅だから。
有楽町の名前がそのまま「ＮＯ」なんてひどい話に思えるが、有楽町はちゃんと知っているのだ。
そう考えるがゆえに、東上が「ダメ」を出しにくく感じることを。
つまり、有楽町には痛くも痒くもないわけで。
そうでなかった時期の方が長いのだから当たり前だが、東上は、ふたりきりでいるのに気を抜くことがままある。
例えば隣にいるのに書類を眺めていたり、プランターに水をやっていたり。掃除をしていたり、掲示物が曲がっていないかチェックしたり。
安心されているのはわかるけれど、欲張る心をとどめる物はもう何もないのだから我慢なんて出来ないし、しない。
だから隙あらば肩を腕を腰を引き寄せてしまうし、今夜は？忙しい？なんて、殆ど脊髄反射で聞いてしまったりもする。
捕まえられた瞬間はわけがわからない顔をしていることが多い東上も、殊更に低めた声で囁かれればさすがに意味はわかる。
耳の先まで真っ赤になってガチガチに固まってしまうから、ごめんごめん、冗談だよ、と離してやれば今度はちょっとだけショックを受けたような顔をするから、面白くてしょうがない。
そうして貝になってしまう東上は、大体逃げてしまうのだけど、路線図の駅名に丸をつけていくことがあるのだ。
それはつまりあの、理由を説明するならくだらないあの暗号。その駅名、Ｙの１１。
脱兎のごとく逃げていくのに笑いを噛み殺しながら、そしたら今日はこれから越生のご機嫌をうかがわなくては、と有楽町は現金に考えるのだった。
おまけ。
「…あ」
しまった、とでもいいたげな声に東上は顔を上げた。そうしたら、隣では眉をひそめる有楽町。普段なら既にワイシャツを着ているのだろうけど、今は素肌のままだ。
そうすると意外に筋肉がついていて、何となく東上はまじまじと見てしまった。
と、視線に気付いたらしい有楽町が振り向いて。
「ワイシャツ、替え、なくて」
「替え…」
「ほら、昨日のしか」
「…」
しばしぼんやりしていた東上だが、慌てて顔をそらした。
昨日のワイシャツしかないのは、それは、つまり、あれだ、そういう。
しかし有楽町はそんな不審な東上の行動には気付かなかったらしく（肝心なところで抜けている）うーん、とか唸った後（恐らく彼は今日のワイシャツについて本当に悩んでいたのだ）、コンビニ、と呟いた。
「…コンビニ？」
脇で東上が小さく繰り返したが、聞こえていなかったのか、そうだ、コンビニだ、と彼は今度はもう少しはっきり発音した。
「買えばいいんだよな、ああ、よかっ…」
「何言ってんだ、勿体ない！」
ほっとした有楽町を強く遮ると、東上は、自分のＴシャツを引っ張り出して力説した。
「おれの貸してやるから！」
「……」
「…有楽町？」
しばし呆然とした後ふらりと倒れた有楽町を恐る恐るのぞきこむ東上から顔を隠しながら、有楽町は、ペアルック（死語）？、と内心大いに動揺しまくっていた。
まあ、それ以前にサイズが大分小さそうなのだけど。
作品名：No Rail No Life 作家名：スサ