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それは刹那にも似た

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 そんな後輩に対し、長次がなにを思うというのだ?
「私がかまえるのは、あと二年なんだ。それまでにあいつを人間らしくするのが私の役目だ」
 そう言いながら楽しげに笑う級友の度量は、いかほどのものか。ああいう子供の相手などごめんだと思うから、きっとこの豪快な男には一生敵わない。
 溜息をひとつ吐くと、押入れの中へ無造作に放りこまれている寝間着を出す。褌も濡れているだろうが、いい加減風呂に行くか着替えろというアピールのようなもの。受け取った小平太は礼を言うが羽織るでもなく立ち上がるでもなく、それを横に置く。困った奴だと溜息をついたときだった。
「失礼します。七松先輩、いらっしゃいますか?」
 控え目に在室を問う声が外廊下のほうから聞こえる。この部屋を訪ねてくる後輩はほとんどいないが、皆無ではない。それにはいつもの通り、小平太が返事を返す。
「いるぞ、滝夜叉丸。入って来い」
 この部屋では、どんな用事の相手だろうが小平太がまず請合う。だから珍しいことではないのだが、意外な名前が出たことに、驚いてつい小平太の顔を見てしまう。
 もっとも見つめられた当人は、障子戸を開けて入って来る後輩のほうを向いているから、こちらの驚きに気づいてもいないのだろう。
「どうした?」
「委員長から日誌を預かってきました。七日ほど実習で不在になるそうなので、七松先輩に任せるそうです」
「……面倒くさいなぁ」
 入り口傍で座った滝夜叉丸は、小平太に薄汚れた冊子を差し出す。それをしぶしぶ受け取った小平太だが、なぜ体育委員会はこんな面倒な受け渡しをしているのだろうか。委員長が小平太を呼び出せば済むことだろうに。それに、彼はこの手の作業をあまり好まない。
「滝夜叉丸、書いといてよ」
 案の定、ぺらりと中を見ただけで、小平太は冊子をすぐに押し返す。そんな先輩の態度をある程度予測していたのか、滝夜叉丸は動じた様子はない。
「委員長が、七松先輩はそう言うだろうから、引き受けるなと言われています」
「平気、わかんないさ」
「筆跡でわかります」
 たった数日の代行を、まだ三年生の後輩に押し付けようとするなど大人気ない。一応、小平太の名誉のために言えば、彼は決して忍務の報告をサボるような男ではない。ただ、必要最低限のこと以外で筆を持ちたくないだけだ。
 しかしそういう甘えは、もっぱら長次や文次郎といったごく親しい相手だけに向けられていたものだから、少し意外に思う。
「先輩が私に直接渡さなかったのは、滝夜叉丸がやることになるとわかっていたからさ。それに、来年の予行演習と思えばいいさ」
 身体を動かすことが大好きな彼らしい発言。もしかしてこれは甘えでなくて、教育のつもりか。しかし、本当に大人気ないことである。
「……ですが」
「私から先輩にはちゃんと言っておく。滝夜叉丸は、私の代わりに記録をとるんだ。いいな?」
「…わかりました。ですが、確認だけはお願いします」
 強い口調で命じられて、滝夜叉丸は引き下がる。ただその顔には困惑の表情があって、上級性ふたりの異なる命令の、どちらに従えばいいか迷っているのが見て取れた。
 ―意地の悪いことをする。
 ひそかに溜息を吐いてはみるが、口を挟む気は毛頭ない。他所の委員会のことだから、当然だ。ただ勘のいい小平太は長次の呆れに気づいたらしく、片目を瞑ってみせる。
「優秀な滝夜叉丸なら、大丈夫さ」
 ぽんと小さな頭に手を置いて、誤魔化すように笑う。小平太の邪気のない笑みは、大抵のことをうやむやにしてしまう。伊作あたりはそれで何度言葉を飲み込まれることか。そして案の定、滝夜叉丸も黙り込むと―。

 ―なんと誇らしげに笑のか。
 よく長次も、笑えば周りがざわりとする。それとは別の意味でこの笑顔はざわりとさせられる。花が綻ぶ、と誰がたとえたものか。硬く閉じたつぼみが花開く様は、人の心をひきつける。
 不意に小平太がこちらを向いて、ニカリと笑う。「どうだ、うちの後輩はかわいいだろう?」など、空耳で声が聞こえてくる。いや間違いなく、言葉にしないだけでそう言っている。それぐらい長い付き合いだ、わかっている。
「当たり前です。日誌などで、この滝夜叉丸が手こずるはずはないのです」
「うん、だから任せたぞ」
 ぐりぐりと髪が乱れるのもお構いなしに撫で上げる先輩と、痛いですからと言いつつも嫌そうでない後輩と。目の前で繰り広げられる忍術学園では珍しくもない光景は、はじてめ、小平太の言葉が真実であることを教えてくれた。
 事実は小説よりもなんとやら。
 ひとしきり撫ぜて満足したらしい小平太がようやく滝夜叉丸を解放してやれば、うっすら涙を浮かべた目じりを擦り、赤い頬の後輩は一礼して部屋を出て行く。
 トン、と閉じられた障子戸の向こうから、小さな足音が遠ざかる。それを見送った後、小平太はまたも笑ってこちらを見た。
「どうだ、かわいいだろう?」
 否定されることなど思いもしない、自信に満ちた声。褌一丁の格好で決まる言葉ではないが、事実なので溜息を吐いて答える。
「―ああ、驚いた」
 一年前の滝夜叉丸からは結びつかない、いい意味で人らしい少年の笑顔。
 元々、忍術学園は、多くの矛盾を抱えている。
 ここでは忍のいろはを学ぶ。仲間と協力することを知りながら、己の命や仲間を見捨てる覚悟を決める。感情を豊かにさせながら、感情を抑える術を身につける。
 その大いなる矛盾が、滝夜叉丸ではないのか? もちろん、自分たちの中にも抱えているその矛盾。おそらく自分も小平太も、決してお互いを見捨てはしない。だが、最後の最後、どうしようもないときは……覚悟を決めるだろう。くないを相手の胸に突き立てて、その命を見取る程度の覚悟ならば持ち合わせている。
 それはこの五年間で培ってきたもの。それが成長というのならば、その通りだろう。しかし滝夜叉丸は、それと逆行しているように思う。なのに、それを小平太ら体育委員会は良しとしているし、長次自身、悪くないと思っている。
 ―矛盾ばかりだな。
 小さく苦笑すれば、それをどう受け取ったのか小平太は首を傾げる。なんでもないとひとつ首を振ると、さっさと風呂に行けと手を払う。
 いくら鍛えているからといって、無用に濡れたままでは風邪を引く。それぐらいわかっているだろう友はようやく寝間着を掴むと、重い腰を上げて褌のまま部屋を出て行く。
 そうして、どこぞから蛙を潰したような悲鳴が聞こえてくる。あんな格好では、すれ違う後輩が驚くに違いない。
 結果、一風呂浴びて戻ってきたところで、小平太は文句を口にするだろう。どうして一言声をかけてくれなかったのかと。それも、友人の甘えのようなもの。理不尽な文句を享受するあたり、こちらも随分と甘い。
 それは、もしかすると滝夜叉丸も同じかもしれない。小平太は彼を人らしくすると言っていたが、そういう男が相手に甘やかされている現実。ああ、これも矛盾か。
 きりがないなと頭を振り、読み掛けの本に目を落とす。小平太が戻って来れば、また静寂は破られるのだ。それまでに少しでも読み進めておきたい。
作品名:それは刹那にも似た 作家名:架白ぐら