それは刹那にも似た
「僕は滝夜叉丸のことを入学して当初から知っているけど、彼ってここに来る前から忍者として育てられていたんだよね。甘えることを知らない子供だったから、褒められるとすごく喜んでさ。それが今では、褒めてくれってアピールがすごいぐらいになった。……本当によくぞここまで変わったもんだよ」
六年間、薬を触り続けたせいで指の先が黒くなった伊作の手が伸びて、褥の上で乱れた黒髪を梳く。
「小平太って、やっぱりすごいよね。でも、こうして泣いて気を抜くことは教えてあげられなかった」
触れるたび、びくりと震える身体。それが徐々に収まっていく。それを見下ろしながら、長次は微かに首を傾げる。
「……なぜ、私に話す」
「なんとなく? 僕だって誰かに、たまには溜めこんだことを色々言いたくなるよ。それに長次なら、受け止めてくれるからさ」
頼りにしているんだよ。そう続けられれば、黙って受け止めるしかない。受け止めてやりたいとも思う。
「起こしてすまなかった。―もう、休め」
お互い、というよりは伊作は精神的にも疲れていないわけがない。促して、滝夜叉丸を蒲団に戻すべく抱きかかえようとして、手が止まる。
「……長次?」
動きを止めたこちらをいぶかしんだ伊作は、すぐに状況を把握したらしい。屈託なく笑うと、ぽんと広い背を叩く。
「そのまま、寝かせてあげなよ。……じゃ、おやすみ」
滝夜叉丸の左手が、いつの間にかしっかり長次の襟を掴んでいる。
―無理に離させるのも、忍びない。
溜息をついて滝夜叉丸を抱きかかえると、長次も目を閉じた。もっとも熱をもつ身体に寄り添われて、安眠などできるはずもない。片手で何度も手ぬぐいを絞っては、肌を拭ってやる。
そんなことを繰り返していれば、あっという間に夜は明ける。戻ってきた小平太は、やはり留三郎から話を聞いていたのだろう。声を荒げることなく、真っ直ぐに褥に近づくと、枕元で人の顔を覗きこんでくる。
「…………小平太?」
「うん。滝夜叉丸は、どうだ?」
どうと言われてもという話だが、この男もひどく心配しているのだろう。安心しろと息をつく。
「今は落ち着いている。熱はあるが、これは仕方あるまい」
「そっか……」
長次の胸にもたれるようにして眠る滝夜叉丸の頬に触れ、小平太も深い息を吐く。
「……ありがとう、長次。滝夜叉丸が世話になった」
「気にするな。私の後輩でもある」
自由な片手を上げて小突いてやれば、そっかと笑う。それでこそ小平太だとこちらも口の端を上げれば、気配で目を覚ました伊作も起き上がる。
「…ん、お帰り、小平太。お邪魔しているよ」
「気にするな。滝夜叉丸が世話になったな」
「本当だよ……。もうちょっと滝夜叉丸が溜め込まないように、面倒見てよね。もう、次はごめんだから」
同じ言葉を繰り返す小平太に、こちらは手厳しい言葉を返す。伊作だから言える言葉だろう。それにごめんと大仰に頭を下げてみせる。
「荒れているのは知ってたんだけどさ」
「そういうの苦手なら、長次とかに相談してよ……」
今回はもう過ぎてしまったことだけど、次があっては困る。それは、確かにその通りだから小平太も珍しく小さくなって聞いている。
声がうるさいのか、長次の振動が伝わるのか、滝夜叉丸が小さく呻く。それに声を噤んだふたりは、それぞれ滝夜叉丸の顔に手を伸ばす。
「…んー、まだ熱が高いね。今日は様子見で、傍についておいたほうがよさそうだよ、長次」
「授業のほうは、私に任せておけ!」
ごく当然のように語る友人たちの声は、長次が首を振るだなんてことをはなから考えていないらしい。
―なぜ決定系で語るのだ。
もちろん今日一日、様子を見るのだって別にかまいはしない。だが、どうも釈然としないものがある。
やれやれと息をつけば、胸の上下が響いたのか、また滝夜叉丸の口から小さな声が漏れ、長い睫毛がふるりと震えると、ゆっくりと瞼が持ち上がる。
「…起きた?」
「みたいだね。ちょっと薬を用意してくるよ」
慌しく伊作が部屋を出て行く。その音も覚醒を促すように、部屋に響く。だが、まだぼんやりとした顔の滝夜叉丸は、起きているのかいないのか。
「気分はどうだ?」
長次の声に、ゆっくりと視線を上げた滝夜叉丸は、胸に顔を預けたまま不思議そうに長次の顔を見る。
「……ここは?」
「昨夜のことを覚えていないか?」
疑問系にはこちらも疑問を返す。数拍おいて、記憶が繋がったのか、それとも肩の痛みからか、滝夜叉丸の口から熱の篭った息が漏れる。
「ご迷惑をおかけしました…」
いつもよりも舌っ足らずな物言いは、本調子ではないからだろう。起きるぞと一言声をかけて身体を起こせば、どう気を使ったところで傷には触る。呻く声が痛々しい。
なにも言わずに見守っているだけの小平太に、どうしたのだと目を向ければ、いいからと首を振られる。だがと問う前に伊作が部屋に戻って来て、そのまま滝夜叉丸の額に触れるから、小平太の視線はまた滝夜叉丸に注がれる。
「熱がまだ高いね。……滝夜叉丸。昨日のこと、どれぐらい覚えている?」
「焼いてもらったあとからは、なにも」
滝夜叉丸もまったく余裕がないから、声を発さない小平太の存在に気がついていないらしい。薬を飲ませると、すぐにまた眠りに落ちる。
―らしくないな。
普段は構い過ぎるぐらいにかまう小平太なのに。
「どうしたんだ?」
胸にもたれ眠る滝夜叉丸を起こさないようにしながら尋ねれば、言いたくないとばかりに首を振る。
「小平太? 滝夜叉丸は、僕の手に負えなくなったらすぐに新野先生のところに連れて行くから心配しないで。それに今は熱があるし薬のせいで朦朧としているけど、君が鍛えているんだ。すぐに回復するよ」
伊作もおかしいと感じたのだろう。励ますように語りかける。それに頷くだけの小平太は、眠る後輩の頬にふれる。
「……ごめんな、滝夜叉丸。私はお前が弱っている姿を見るのが、苦手なんだ」
隠しもしない心情の吐露。忍たまならば、苦手なものがあってはならないもの。だが、そんな小平太の思いもわからないわけではないのだ。
覚悟というものは出来ているようでいて、いざというときまで形にならないものかもしれない。
蒲団を畳んで、伊作は小平太を促すと部屋を出て行く。彼に任せておけば、小平太は大丈夫だろう。元々、気鬱が長引くような男ではないし、滝夜叉丸が元気になればそれだけでいい。
耳を澄ませば、朝錬に出た忍たまたちの声が聞こえる。そして近くでは、小さな寝息。今日は滝夜叉丸に付き合うのだからと、長次も目を閉じた。
そうして滝夜叉丸がしっかり目覚めたのは、お昼過ぎ。さすがに褥から抜け出している長次は、覚醒具合を確認するように手ぬぐいを絞って首に当ててやる。
「痛みは?」
「……平気です」
朝と比べ、しっかりした声はいつもの滝夜叉丸のものに近い。これならまともな会話も可能だろうと踏めば、先に大きな瞳が問いたげにこちらを見る。
かまわないと軽く頷けば、一度だけ目を伏せて、またその瞳が長次を映す。
「私は昨夜、なにをしたのでしょうか? その、先輩にもご迷惑をおかけしたと思うのです」