それは刹那にも似た
伝蔵の合図で梁に登り、隣の部屋を確認する。酒を飲んでいるのか、半裸の男たちは高いびきで眠りこけていた。
―土間の男を、捕らえますか?
今なら、意識のある男はたったひとり。長次と小平太ならば、声を上げさせることなく捕らえることは可能だ。だが、伝蔵は首を振る。
―気づいた子供たちが悲鳴を上げては元も子もない。滝夜叉丸も危険だ。
だから待機中の六年と五年生の一部に潜入を命じる。それまで待てと、ひどい指示を出す。ひとりも逃すわけには行かないのだから、もちろん伝蔵の指示はわかる。それでも、心情としては頷きがたい。
―もし滝夜叉丸に危険が迫ったときは、許す。それまでは、我慢してくれ。
顔の半分を頭巾で隠している今、その表情は読みがたい。ただ、伝蔵とて決して好きで命じているのではないことぐらい、わかる。
頷くふたりを小屋に残し、急ぎ外の忍たまたちを呼びに消える人。その気配を隠すように、すすり泣く声が低く響く。
誰もが豪快な破壊屋と認める体育委員会委員長。その心が、一部のものに対しては非常に繊細であると知っている者は少ない。
―小平太、隣の部屋を見張っていろ。
せめて滝夜叉丸の声が聞こえないところにいるといい。そういえば、目を逸らすことなく小平太は首を振る。
―滝夜叉丸が戦っているのに、私が逃げたら駄目だろう?
それはそうかもしれない。だが決してそうではない。
ただ、自分たちは忍たまで、忍務である以上、決して避けられない道はある。それがこれだとしたら、随分とひどい話だ。それとも、後輩であろうが使えるものは使えという覚悟を持てということなのか。
「―っぁ、止め…てっ」
すすり泣く声に悲鳴が混じる。小平太がくないを構えるのと、長次が縄標を構えるのはほぼ同時。滝夜叉丸の身体をくの字に折り曲げたまま首を絞める男に、ふたりは迷わずその刃を振り下ろした。
「…首領格は、左頬に傷のある男です。ですが作戦について詳しいのは、痩せた長身の三白眼の男になります。夜明けに別働隊がさらった子供たちを回収に来て、ここから山をひとつ越えた根城に集めるそうです。そこから琵琶湖を使い京に運ぶ……それが、計画の全容だと話していました」
忍たまたちの手によって人さらいの集団は捕らえられたが、滝夜叉丸の報告に伝蔵たちは溜息をつく。大掛かりとはわかっていたが、壊滅させるには骨が折れそうな規模だ。
「ご苦労だったな、滝夜叉丸。あとは私たちに任せて、休みなさい。伊作、頼むぞ」
「はい。……滝夜叉丸、裏手に井戸があるから、そっちで治療しよう」
殴られたり首を絞められたりの痕が残る滝夜叉丸を、伊作が連れ出す。一方で、他の忍たまたちはアジトに隠された手がかりがないか、手分けして探索する。
「おい、小平太。持って行ってやれ」
板間を調べる文次郎が、散らばる着物を集めて小平太を呼ぶ。
「……これって」
「滝夜叉丸の着物だ」
こちらで寝ていた男たちは、全員、文次郎たち突入部隊がまとめて縛り上げている。今は、囚われたことがばれないように猿轡をして土間にひとまとめにしてあるが、なにがあったかは彼らの身なりを見ればわかったのだろう。
「滝夜叉丸なら、伊作が裏手の井戸に連れていったぞ」
土間の近くにいた仙蔵も声をかけてくる。一度着物を受け取った小平太だが、なぜか一歩も動かない。
どうにかしろと文次郎の視線で促され、長次はそんな小平太のを肩を叩き、今にも泣き出しそうな瞳と向き合う。
「小平太…」
「悪い、長次。持って行ってやってくれ。私は今、あの子の顔を見たら、山賊たちを殺しかねない……」
大事なものを傷つけられて、怒らない者はいない。この小平太の反応は忍たまとして正しくないのかもしれないが、それを指摘できる者はここにはいない。誰もが、自分の後輩が傷つけられたら、きっと小平太と同じ反応をするだろうから。
「わかった」
着物を受け取って、裏口に向かう。
木戸を開けて外に出れば、井戸の傍で伊作がしゃがんでいるのが見えた。
「……滝夜叉丸、力を抜いていてね。辛かったら、僕の肩を噛んでもいいから」
「大丈夫です…っ」
その伊作と抱き合うようにしてうずくまる滝夜叉丸は、長次に気づいて視線を上げる。ただすぐに辛そうに顔を歪めて、伊作の肩に顔をうずめる。
伊作も気づいたらしいが、振り向きもしない。
「長次、悪いけど救急箱の中から、紫の貝を出してくれないか。軟膏が入ってるんだ」
片手で器用に桶を操りながらの姿は、普段、不運委員長と呼ばれる頼りなさとはほど遠い。
肌を流す水音は冷たく、そこに労わりなどないようにも思える。だが、そのほうがいいのかもしれない。忍務で強制される行為に、何かしらの感情を乗せるほうが辛くなる。
貝の蓋を取り横から差し出せば、慣れた指がそれを掬う。
「薬を塗るから。少し気持ち悪いと思うけど」
「…大丈夫です」
涙を浮かべた瞳が、見守る長次の視線に絡む。なにかを訴えるその彩。
「―っ」
しかしそれがなんの意味を持つかわからぬ間に、滝夜叉丸は苦しげに頭を振る。宥める伊作の片手は背中を撫で、解かれて乱れたままの髪を梳く。
「ごめんね。しみるだろうけど、予防の意味もあるから……もう平気かな?」
「……わかって、います。平気です」
息を吐き、顔を上げる。その毅然とした様はひどく場慣れしていて、溜息しかでない。もちろんそれを表に出せば、傷つくのは滝夜叉丸だから決して出せないが。
「着替えだ」
代わりに、集めてきた着物を差し出す。今、滝夜叉丸が羽織っている単はぼろぼろに汚れているが、それを除けば、落ち着いた身なりにはなる。
「…ありがとうございます。ですが、少し待ってください」
着替える前にと滝夜叉丸は立ち上がり、井戸から離れた草むらに向かう。なにをするのかと長次と伊作が首を傾げる中、彼はおもむろに自分の口に指を入れる。
―膝を突いて吐く後輩の背に、衝撃を受けたのははじめてだった。
慌てて伊作が駆け寄って、その背を撫でる。
「滝夜叉丸っ!? 吐き気があったのなら、言ってくれないと……」
「いえ、吐き気があったわけでは、ないんです。ただ随分、飲まされたので…」
口を濯ぐようにと差し出された竹筒から水を口に含み、一度吐き出す。もう一度、今度はごくごくと水を飲むと、それを押し返す。
「洗いたいんです」
また指を口に含んで、えづく。まだ四年生の忍たまがすることだとは思えない。伊作がたまらずこちらを振り返ったのに、唇を噛んで一歩踏み出す。
―覚悟など、とうに決めていたはずだ。
ただ、滝夜叉丸を前にするたびに、幾度も思い知らされる。それは長次の弱さであり、未熟であり、恐れというもの。それらが滝夜叉丸という鏡で映し出される。
「……無理をするな」
そっと背を撫でれば、乱れた髪が肩から落ちて、引きつった傷跡を残す右肩を露わにする。
「無理、では……ない、です」
汚れた口元を拭い、ニコリと笑ってみせる。それは自然に浮かんだだろう、長次に初めて見せるもの。
「……わかったんです。中在家先輩が言われていたことが、少しだけですが」