月曲
急に名前を呼ばれびくっと反応した俺は、扉を覗くのをやめて逃げようとするが、臨也の赤い眼とばっちり視線が噛み合ってしまった。
「何処行くのかなあ?」
「……」
にっこりとその眼が閉じられる。距離がある所為で表情がよく見えず、臨也の感情の機微が読み取れない。
渋々扉を押し開いて中に入る。焼餅を焼いた直後なので臨也と会話したくなく、さっと奥へ逃げる。
「紅茶は」
「アッサムが良いなあ」
投げかけた言葉に臨也は上機嫌に応じる。俺が何を考えているか判っているという声だ。茶器を用意して臨也の好みに合うように、無意識に手が動く。長年の同居生活のお陰で臨也の好みは熟知していた。丁寧にソーサーまでつけて臨也の机に近付き、顔を反らしながら置いた。カップの触れ合う音を聞いて、すぐに茶を啜る。んー、と間延びした臨也の声。なんだ、俺がこんなに苛ついているのに、こいつは愉快そうだな。さっきの電話の所為か。ムカつく。
不貞腐れて部屋に帰っても良かったんだが、臨也がじっとこちらを見ているのが判っている為に、俺は机に腰掛け、天井を見つめてその視線から逃れる。
「シズちゃん、なんで怒ってるの?」
「……」
知ってる癖に一々聞くんじゃねえ、と心で返す。
「なんか、嫌な事でもあったの?」
「……」
「言わなきゃ判んないよ」
「……」
俺は臨也ほど口が上手くない。だから、黙るという手段は一番強力な言葉の抵抗だ。わざとつんとして顔を臨也と逆側に向ける。俺が怒っていると理解しながらくすくす笑いを止めないこいつは性根が腐ってる。
「俺の可愛いシズちゃん。お願いだから何か喋って?」
「……」
よし、決めた。俺は絶対に喋らない。
大体、ただいま、って挨拶したのに先に無視したのは臨也だ。電話中にわざわざ話を中断してまで言う事じゃないかもしれないけど、俺にとっては重要事項。臨也なんか大嫌いだ。
「おーい」
言葉を忘れた俺はシャワーでも浴びるかと体重を預けていた机から離れて歩き出した。すかさず臨也の声が背中に降りかかる。
「気にならないの?」
「……」
此処で止まったら負けだ。振り向いたら負けだ。
「俺が仲良ーく喋ってた電話の相手が誰だか知りたくない?」
「……うるせえ」
負けた。
「何が言いてえんだ、俺は全然気にならないからどうぞ、仲良く電話を楽しんでください」
「ははっ、嘘ばっかり」
「嘘じゃねえ」
見透かされている心をこれ以上覗かれたく無くて足を進める。だが臨也は追い打ちをかけるように早口に言った。
「沙樹だよ」
足が止まる。かっと熱が昇った。サキ。女の名前。誰だ?
明らかに顔色が変わった俺に対して臨也はますます笑みを濃くした。
「覚えてない? 三ヶ島沙樹。茶髪で可愛い女の子」
「……。……細くて、顔色悪くて、とち狂った奴か」
「そうそう」
思い出した。会った事がある。臨也を妄信していて、臨也を神みたいに崇めてる変な女。自分の事は棚に上げている事に気付いていない俺は不快感を隠さない。あいつは何かあれば事務所まで来て、ああですこうです。鬱陶しかった。まだ俺が引き籠っていた頃、窓から見た、並んで歩いてる二人を見た時に此処から机を投げて殺してやろうかと思った事もあった。取り巻きの癖にこの部屋に土足で踏み込んで来た事もある。本棚の隙間からあの女に向けて殺意の視線を投げている俺に臨也は気付いていたのか。
「嫌いなんだよあいつ」
「どうして? 頭も良くて素直で良い子だよ?」
「うざい」
「それは何で?」
「臨也さん臨也さんって、生意気に馴れ馴れしくてっ……、!」
憎しみのようなものが籠った言葉。はっとしたのは俺。予想通り臨也はとっても満足げな顔だった。
「シズちゃんの大事な俺が、シズちゃんの嫌いな女の子と電話のやり取りをしている事は気にならないの?」
「っ……、勝手に、しろ!」
気恥ずかしさと手玉に取られたのが悔しくて俺は走って事務所を飛び出した。乱暴に部屋の扉を閉めてベッドに潜り込む。追って来ないでと思いつつ、布団を掴んで身を隠している辺り、臨也が此処まで来る事を何処かで期待している俺が居る。
身を縮こまらせて神経を張る俺の耳が、扉が開く音を聴き逃すはずが無かった。見開いた眼をぎゅっと閉じる。ベッドのスプリングが軋んで、臨也の気配がすぐ傍にあった。
「シズちゃん出てきてよ」
「うるせえ出てけ!」
「追いかけてきて欲しかった癖に」
「欲しくねえ、勘違い野郎! 勝手に言ってろ、今すぐ出てけクソ臨也! ノミ蟲!」
「口が悪いねえ」
言いながら臨也は笑っている。臨也の手が掛け布団を引き剥がそうとしているのを感じた俺は、その方が解放されると判っていながら意地を張って手に力を込める。くぐもった臨也の声。布団越しに体温が伝わって来た。
「じゃあ此処で沙樹ちゃんと電話しようかな。デートのお約束でも」
「っ! か、勝手にしろって言ってるだろ!」
「でもなあー、意地っ張りなシズちゃんがしないでって言うなら考えるけど」
「言うか馬鹿、出ーてーけー!」
蹴り上げようとするとひょいとかわされる。その動作で布団が捲り上がり、ここぞとばかりに殴りかかる。不良には当たるそれを臨也は簡単に避けて、首元のカッターシャツを掴んで身体を密着させてくる。
「可愛いなあ、お口が素直になってくれたらもっと可愛いんだけど」
「うっせえ放せ、俺に可愛げなんか求めんなっ、可愛さなんか三ヶ島が売る程持ってるだろ、あいつに貰えよ、そんで脳味噌まで絞り取られて来いっ! くそ、放せって、てめえ!」
べらべらと捲くし立て顔を背ける。俺が何か言う度に笑う臨也にムカつく。身を捩る俺をベッドに無理矢理押さえつけて何を狂ったかこいつはキスしてきた。
「っんー! んん、ん、ぃ、はな……んっ……!」
舌だけは入れさせるものかと頑として歯を開かない。歯茎と隙間をなぞられ、ぞわりと鳥肌に襲われても必死に奥歯に力を入れる。だがくすぐったい愛撫に俺はほんの僅かに歯を開いてしまい、それを臨也は逃さない。一気に奥まで入ってきた舌に良いように嬲られ、舌を抜けば俺が口を閉じると思った臨也は、呼吸の暇さえ与えてくれない。くらくらする意識に従い、臨也の胸を何回も押し返す。俺と違って口の隙間から器用に酸素を取り入れる臨也は一向に放す気配が無い。やがて肢体を動かす程の力を奪われた俺は眼から生理的な涙を零す。苦しくて死にそうだ。漸く唇を放され出来るだけ多くの酸素を肺に取り込もうと大きく息を吸う。が、その一回だけでまた塞がれる。痺れて抵抗の術が無い俺は、白旗を上げて臨也に良いように舌で蹂躙される。くそ、腹が立つ。完璧な敗北にもそうだし、植えつけられた従順な意思が勝手に腕を臨也の首に回す事にも。逆らわなくなった俺に臨也は益々調子に乗る。我が物顔で俺を犯すその舌を噛んでやろうかとも思ったがそうするとその後の報復が恐ろしく怖い。そういう言い訳を味方につけた俺は眼を閉じて快楽の激流に身を任せた。