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月曲

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関係無い俺を遠ざけるように距離を保っていた紀田が、俺の言葉を聞いてびくりと背筋を伸ばした。歳は大差無いんだが、この一ヶ月で一気に筋肉がついた長身の俺と中学生の紀田じゃかなり体格差がある。

「っ……あの……平和島、さん、ですよね?」

男にしてはやや高い声。これが曲がりなりにも不良グループの頭だってのか。胡散臭げに眼を細めた俺に紀田は怯えたような顔をした。

「俺を知ってるのか?」
「……あー、なんか、鉄パイプで殴っても全然怪我しないどころか逆にパイプがお陀仏になるとか、電信柱で人を吹っ飛ばすとか、コンクリに手形のオブジェを残したとか、ある事ない事よく聞くんで……」

全部ある事だが。流石に眼の前で見ていない以上、電柱を引っこ抜く事は信じていないんだな。
それにしても私服姿でサングラスまでかけているのに俺だと判るんだな。もう少し考えないと。眼でざっとこちらを見ている者が居ない事を確認すると、親指でくいっと入口を差す。紀田は戸惑いの眼を向けていた。

「入らねえのか」
「あ、あのっ、よく判んねえんですけど、何であんたが此処にいるんすか?」
「ああ?」

ぴしりと眉間に皺が寄る。何の為に俺がわざわざ出迎えてやったんだと睨み付けるがすぐ止める。こいつが言いたいのはそういう意味じゃない。俺と臨也の結びつきが見えないんだろう。当たり前か。粟楠会や得意先以外じゃ俺の存在は世間には知られていなかったから。情報屋に会いに来たら今噂の喧嘩人形が待っていたらそれは驚くだろう。

「説明面倒臭い。臨也に聞け」
「っ……、臨也さんと知り合いなんですか?」
「つーかお前、三ヶ島と一緒じゃねえのかよ」

今現在俺が一番気に入らないと思っている女の名前を挙げると紀田は俯きかけていた顔を勢いよく上げた。

「なんで沙樹の事……!」
「てっきりあいつが連れてくるのかと思ったぞ。あのイカレた女の面が拝めると思ったんだが……」
「!」

紀田は俺に恐れを抱きながらも睨みつけて来た。そういえばこいつと三ヶ島は付き合っていたんだっけか。あんな女とよくやるな。まあ他に男が居た方が三ヶ島も臨也にちょっかい出さずに済んで良いな。
これ以上火種を大きくするのも賢いやり方とは思えなかったから、俺はサングラスを外しながら背を向けてエントランスに向かう。慌ててついてきた紀田の足取りは重かった。
迷い無く何時ものボタンを押し、エレベーターに乗り込む。最後に降りたのは俺だからエレベーターも一階で止まっていた。重力を身に宿しながら、隣で拳を握っている紀田に視線を落とすが何も言わない。臨也はこいつを利用してどう遊ぶつもりなのか。
十五分ほど前に出た自宅の玄関を開く。紀田を無視して先に靴を脱いで進む。何の迷いも無い俺の動きに若干紀田が不思議そうな顔をするが気にしない。事務所に入ると、俺が帰って来た時と同じように硝子越しに空を見ていた。

「来たぞ、臨也」

少し声を張って言うと、臨也は微笑を浮かべたまま振り返った。それを見てちょっとだけ嬉しくなった。だって、臨也が浮かべたその表情はひどく他人行儀で偽った仮面のものだったから。良くも悪くも臨也は本心を出さない。俺以外、には。
気を良くした俺は、お互いにしか判らないぐらい一瞬だけ臨也と目配せする。頷いた俺は紀田と離れ、給湯室に入った。さっきアッサムだったから次はダージリンだなと考えながら客用のカップに紀田の分も注ぐ。

「ようこそ、紀田正臣君」

演技のような臨也の声。わざとらし過ぎて笑った。

「用件は判っているけど、君が俺の所に来てくれた事が嬉しいから君の口から直接聞きたい」

紀田の息を呑むような音が聞こえた。あんまり虐めてやるなよ。

「……助けて、欲しいです。俺が黄巾賊を、背負っていけるように」

事情をよく知らない俺でも、紀田が余り本心を言っていないように感じた。臨也に縋るのは最後の手段だとでも言うような。紀田は臨也を快く思っていないのがなんとなく理解出来る。俺はその方が好都合だから何も言わないが。
淹れたての紅茶を二つ持ってソファに座る二人の間にゆっくりと置いた。この動作が紀田を驚かせたのか、臨也と向き合っていた視線を俺に向ける。

「あの……静雄さんですよね?」
「さっきも確認しただろうが」
「何で此処に居るんですか……?」

茶をすんなり出す辺り、俺が単に三ヶ島と同じ臨也の信奉者じゃないと直感したのかまっすぐにぶつけてくる。
改めて言われると俺と臨也の関係を一言で説明するのは難しかった。うーんと適当に悩んでいる音を出すと、臨也の軽やかな声が制した。

「彼は俺の所有物だから気にしなくて良いよ」
「え?」

優雅に紅茶を口に運ぶ臨也と、まあそんなもんだなと手をポケットに突っ込んで平然としている俺を交互に見渡す。すると紀田は嫌悪の眼を隠さずに臨也に向けた。

「あんたは、何人、征服してるんですか……!?」
「やだなあそんな言い方。沙樹ちゃんは自分の意思で俺に従ってる訳で。言う事を聞けなんて言った事は無いよ?」
「同じ事だ! あんたはそうやってどれだけ人を弄べば気が済む、」

俺はそのままの体勢で勢いよく足を振り上げた。理性が働きかける前に勝手に足が動く。暴力が滲み出る時は大抵こうだ。蹴らなかったのは臨也というブレーキが居るという事だけで。喉に軽く触れる感触に紀田がごくりと唾を呑んだ。

「臨也を愚弄すんなよ、餓鬼が……」

ふうと息を吐いて熱が昇る頭を落ちつけようとする。ゆっくり足を戻して、行き場を無くした怒りを拳を握りしめる事で宥める。その間一瞬も視線をずらさなかった臨也はにこやかに言葉を繋いだ。

「ね? むしろ、俺が征服してるのはこの子かもしれないよ」
「っ……一体何を吹き込んだんです?」
「さあねえ、正義感溢れる純粋な君が聞いたら耳を犯されたって訴えられるかもしれないから黙っておくよ。ねえ、シズちゃん」

怒りを鎮めている俺が臨也の涼やかな声に視線を落とすと、臨也の右手が持ち上げられる。誘われるように俺は臨也のソファの後ろに回ってその手を握り自分の頬に当てた。紀田の存在はまるっと頭から抜けていた。
愛玩具を撫でるような手付きに恍惚とした表情を見せる。甘えるように背中から首に腕を回すと「よしよし」という臨也の声にうっとりした。信じられないものを見るような眼つきで紀田が凝視してくる。終始無表情を貫いてそれに見合う低い声を出し、先ほど己を凄み、巷では喧嘩人形なんて呼ばれる男の別の一面を見た事による衝撃か。興味の無い俺は頬を擦り寄せる。

「んん、臨也……」

漏らした声に臨也は笑みを浮かべ、俺の頬にキスをする。

「シズちゃん、紀田君と大事なお話があるから部屋で待っててくれる?」
「俺よりも大事か?」

意図的に煽るような声を出す。気付いているのか気付いていないのか、臨也は指の腹で俺の唇を撫でた。

「それはシズちゃんが誰よりも判ってるでしょ?」
「……」

作品名:月曲 作家名:青永秋