ジャンクヤードにて
どうやら正常な状態らしい。これなら、おそらく声を出せば聴覚にきちんと届くはずだ。
起動してから7日と13時間29分。
今までそれを考えなかったのは単に必要がなかったからだが、音が聞こえることが何かの気休めになるかもしれない。
臨也は咽をさするようなしぐさをしながら、話せるのだろうかと口を開いてみた。
声帯部品が震えて、何を話そうと決めていたわけでもないのに、勝手に声が単語を紡ぐ。
「・・・帝人君」
みかどくん。ミカドクン。帝人君。
その声はどこか懇願するような響きを持っていて、臨也は思わず咽を押さえた。
メモリは相変わらずまっさらのまま。それが何を意味する言葉の羅列なのか分からない。けれども、分からないままインプットする。
大事な言葉。それだけは判る。
『帝人君』
空き容量は十分にある。メモリの一部を固くプロテクトして、その中にその単語を置いた。セット、完了。
きっとメモリをデリートされる前に、一番の優先事項としてインプットしていた名前なのだろうなと思う。なぜかとても、とても・・・愛おしい響きが、した。
愛おしい。
帝人君。
・・・愛して、る。
はて、愛とはなんだろう。それは感情とかいうものだろうか?機械の自分には縁のないものだろうに、なぜかその言葉をその名前に続けることはとても自然なことのように思えた。
臨也はアンドロイドだから、人間の感情に関して明確なビジョンを得ることはない。恋だの愛だのというものに対しても、辞書的な意味を知るだけで、決して理解はできない。ただ、それでも。
もしもこの、金属製の手のひらが触れたいと願うものがあるのだとしたら、多分その人なのだろう。それだけは、分かった。
帝人君を、××る。
ああ、俺の義務はそれか、と臨也は理解する。まだすべては判らないけれど、きっと、臨也のするべきことはそれなのだ。そして、多分、そのために。
早く、見つけないといけない。
臨也は潮風の吹きぬけるジャンクヤードを見渡す。機械には酷なその環境を、なんとかして乗り切って切り抜けて。そうしてジャンク屋たちに売り飛ばされることもなく、ここを脱出して。空っぽなメモリで、どうやって彼を見つけられるのだろう。分からない、分からないけれど。
みかどくん。帝人君、愛してる。愛しているよ。
ただその「感情」のようなものが臨也の中で確固たる位置にある限り、何とでもなるような気がした。
風が吹く。臨也の髪パーツがなびく。
『あなたの・・・は、・・・ですね』
ああ、擦り切れそうな声が、臨也に語りかけてくる。
知っている、その声を知っている。霞みがかったメモリの向こうで、誰かが振り返って微笑む。その、光景を。
知っている。
泣きたくなる。いや、そんなことはあり得ない。大体、この機械の体でどうやって泣くって?理解できない。帝人君、小さくお守りのようにその名前を呼ぶ。
どうしてその人は自分を捨てたのだろう。
正切実に知りたかった。
ジャンク置き場には温度がない。全部が全部機械だから、何をさわっても同じ感覚ばかりが返る。拾っては捨ててを繰り返す晴天の午後、太陽の照り返しがキツイ。
キツイ?
臨也は最近の自分の思考を疑問視する。
アンドロイドの自分が、どうしてこんな人間のようなことを思うのか、よくわからない。そんなプログラムは組み込まれていないはずなのに。それとも、自分の知らないうちに何かがインストールされていたとでも?
『・・・やさん!』
泣きそうな顔を、していた。
伸ばされた小さな手。フラッシュバック。ああ、泣かないで、泣かないで、俺は君が、誰よりも・・・。
ふらりとその場にしゃがみこんで、臨也はメモリ領域の奥からノイズを拾う。何かが、ここに残っている。真っ白のメモリ領域に干渉する何かが。
それは、何だろう。マザーに問いかける。反応を待つ間に、周囲に視線を走らせて、目に留まったガラス球。アンドロイドの目を形成していた部分。ああ、と息を呑んだ。この青を知っている。
まるで深い水面の。
あの子の、目と、同じ、色。
「み、かど、くん?」
何かがカチリとはまる音が臨也の神経系統を揺さぶる。ああ、そうだ、それだ。
「・・・コアを、探さないと」
俺の左目を。
メモリのバックアップが、あれに。
あれに、帝人君の、ことが。
臨也は勢いよく立ちあがると、必死で周囲を見回した。今まで探したところにはなかった。ならばどこに。
早く。
焦る気持ちばかりが強く、臨也の指令系統を埋め尽くす。
早く、早く、そうでなければ。
焦るだなんてどういうことだ。焦るはずがないのに、自分はアンドロイドで、それは事実なのに。でも確かに今、焦っている。なぜ、なぜ?
走りだす。
機械の体に駆け巡る、それはおそらく「感情」と呼ばれるものだった。