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【 「 MW 」 】

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 絶え間ない祈りを捧げているのに、救いもしない神を信じている賀来の愚直さがただただ、苛立たしかった。
 神、神、神!
 神を捨てて生きることなど考えたこともないのだろう!
 お前は神しか信じないのか……!?
「――なら、俺がお前から神を奪ってやる」
 苛立ちだけではなかった、どこまでも冷たい怒りがあった。結城は彼に襲いかかって床に押し倒した。無理やり服を剥ぎ取っても、賀来は驚きのせいかほとんど抵抗しなかった。首筋に顔を埋めた時、掠れた声が名前を呼んだが、結城は取り合わなかった。
 賀来は終始、震えていた。
 時々、縋りついてくる手がうっとうしくて、縛った。
 それ以外のことを、結城はあまり覚えていない。

          4

「……大丈夫か?」
 ソファで横になって朝を待っているうちに、いつの間にか寝てしまったようだった。
 まだ夜は明けておらず、部屋の中はうす暗い。
 結城は傍らから覗き込む賀来を、目を瞬かせながら見上げた。手に白いタオルを持っている。
「なんだ……?」
「ひどい汗だ」
「発作じゃない。大丈夫だ」
 いや、寝ていた間に発作を起こしたのかも知れないが、だとしてももう治まっていた。顔を拭おうとする賀来の手を遠ざけたところで、結城は彼がすでに神父服に着替えていることに気付いた。ボタンの飛んだYシャツをうまく上着で隠している。
「お前、俺に断りもなく帰るつもりだったのか」
「……そういうつもりじゃ」
 無意識にか、襟元をかき寄せるようにして、賀来が後ろに下がる。
 結城はソファから身体を起こした。
「バカだな。帰る金もないくせに」
 今の時間は電車もバスもない。移動手段はタクシーしかなかった。恐らく着替えてからそれに気がついて、賀来はひとり、部屋の中で途方に暮れていたのだろう。
 結城は手を伸ばし、賀来のあごを掴んで上向かせた。
 目もとを指先ですっと撫でる。
「……まだ少し、赤いな」
 あれから結城は、賀来の傷を出来る範囲で手当てした。
 恐らく、賀来は美香に自分に会うことを言っているだろうし、今はまだ、美香には賀来の同級生だと覚えていてもらわなければ困る。誰にも賀来との関係を詮索されたくなかった。
 賀来は覗き込む結城に身体を強張らせたが、逃げなかった。かわりに額の辺りをあたたかいタオルで拭おうとする。結城はその腕を取り、念を押すように声を低めた。
「粕谷に、何か聞かれたか」
「――……」
「何も喋っていないだろうな。島のこと、俺たちのことは」
 学園に居た頃から、結城は賀来にずっと言い続けていた。何も言うな。島の生き残りであることを知られるな、と。あの危機感の薄かった村越神父ですら、ふたりの出身地を偽装した。学園の記録にも沖之真船島のことは載っていない。
 賀来は結城の手を振り払って、手にした白いタオルを見た。
 ぎこちなくうなずく。
「あぁ、何も言ってない。俺はお前のことはよく知らないと答えた。教会の一信徒だと」
「粕谷は信じたか?」
「信じたと思うが、わからない。お前のことを聞いて、……驚いてしまったから」
 結城は顔をしかめて賀来を睨んだが、口に出しては何も言わず、頭の中でざっと計算した。
 あの医者については調べ上げてある。さほど猶予があるとは思えなかったが、粕谷がふたりの名前を出し、周囲に働きかけるまでに殺すことは出来るだろう。事故はいつ起こるかわからない。人生なんてそんなものだ。
「結城、お前は俺はせいで――」
「もう二度と、余計なことはするな。島の生き残りだと知られたら終わりだぞ。お前も俺も殺される」
「……すまない」
 泣き言など聞きたくなかった。横目で睨みながら言葉を遮ると、賀来は顔色を変えて、うつむいた。自分が何をしたのかようやくわかったらしい。
 結城はまたソファに身体を預けた。
 眠気はないが、身体が少し、重かった。やはり寝ている間に発作を起こしたのだろう。起きなかったのは幸いだった。
「なあ、結城」
 横にいる賀来がぽつんと呼んだので、結城はそちらに目を向けた。
 黒い神父服の賀来はタオルを手にしたまま遠くを見つめている。夜明けの街。徐々に白んでいく街並みを見つめながら、眉間に深いしわを刻んでいた。着替えても鏡を見なかったのか、髪が乱れている。
「もしもあんなことがなかったら、俺たちは今頃、何をしていたんだろうな」
 何を言い出すのだろう。
 結城は呆れ返って、何も言えなかった。考えてもどうしようもないことだ。現に結城と賀来は家族を失い、島の人々は全員、殺された。過去は変えようがない。
 だが賀来はどこか懐かしむような声で続けた。
「お前は頭がいいから、島を出て、ここで暮らしていたかも知れないな。銀行員? あぁ、そうかも知れない。お前ならなんにでもなれただろう」
「賀来」
「俺は何をやってもお前にはかなわなかった。まだ島にいたかも知れない。ずっと居たら退屈だと思うかも知れないが、俺はあの島が好きだった。好きなんだ。夕焼けで真っ赤に染まった海も、お前と一緒に遊んだ洞窟も、時間事に変わる海の色も」
「止めろ、賀来」
 聞いているうちに背筋が粟立つような苛立ちが込み上がってきた。結城が手を伸ばして腕を掴むと、賀来は夢から覚めたように目を見開き、結城を見る。その目が徐々に悲しげな色に染まった。
「俺に残されたのは、お前だけだ、結城」
「――……」
「水、飲むか?」
 唐突な話題変換だった。結城は思わず顔色も変えない賀来を見つめて、不意に喉の渇きをおぼえ、うなずいた。賀来はタオルを置いてキッチンに向かう。その背中を見やって、結城は賀来が見つめていた街並みに目を向けた。
 もしもなど、一度だって、結城は考えたことがなかった。
 過去は変えられない。
 あの夜にすべてを奪われ、残された道は、限られていたからだ。
 今は自分の命さえ危うい。
「飲めるか?」
 衣擦れの音ともに戻ってきた賀来が問う。結城はコップを受け取って、少し、口に含んだ。賀来は傍らにしゃがみ込んでまた外を見ている。曙光を浴びるその横顔に、ひどく寂しげな目に、結城はどうしようもなく心がざわめくのを感じた。
 なぜかは、わからない。
 賀来と離れていたこの数年、感じたことのない感情だった。
 あの卒業式の夜以来――。
「賀来」
 知らずにうっすらと笑いながら、結城は低い声で呼んだ。水を一気に煽ってコップを差し出す。それに気がつき、賀来が身体の向きを変えて受け取った。立ち上がろうとする神父服の胸ぐらを掴む。素早く起き上がり身体を入れ替えて、賀来をソファに押しつけた。
「聞くのを忘れていたよ、神父さん」
 コップが甲高い音を立てて転がる。
 突然のことに賀来は真っ青になって、身を震わせた。
 結城は冷ややかに笑んだ。
「どうだ、神を本当に裏切った気分は」
「――――」
「あの時はまだ聖職者じゃなかったよな? 清く正しい神父さん……?」
 二度、唇を開きかけて、賀来は喘ぐように息をする。大きく見開かれた目がゆっくりと青い悲しげな色に染まっていった。――街を見ていた時よりも数段、傷ついた目だった。
 カトリックの聖職者は禁欲の誓いを立てている。
 もちろん同性同士など以ての外だった。
作品名:【 「 MW 」 】 作家名:池浦.a.w