【 「 MW 」 】
5
「終わったのか?」
背後から静かに声を掛けられて、結城は大きな容器が入った黒いバックを背負い、後ろを向いた。
ビルの非常階段の出入り口にひとりの男が立っている。帽子を深々と被り、肩の近くまである黒髪がビル風に揺れていた。まるで日差しの中に踏み入れるのを怖がっているかのように、暗がりに身を隠している。
その彼を見、結城は改めて背後に広がる無秩序な大都市を眺めた。
今頃、あの刑事――沢木はどこかで見ているだろう自分を探し回っているに違いない。いずれここだと突き詰めるかも知れないが、別に構わなかった。ここにも指紋はおろか何も残していない。それにもう、隠れている必要もなかった。
米軍の基地を巻き込んだ大騒動のあと、結城美智雄名義のものはすべて差し押さえられ、それは賀来裕太郎も変わらなかった。しかし結城には銀行員だった時に作ったいくつもの隠し口座があった。金には困らない。
「あぁ、終わった。……新たな始まりだな」
答えて、結城はその男に向かい歩き出した。
沢木と遊ぶのもこれで最後だ。
結城はノンキャリアの刑事ごときにかかずらう気はなかった。部下を殺された恨みを抱いて俺を追えばいい。新しい部下が出来たのか、と聞き忘れたことを思い出したが、どうでもいいかと振り払う。
結城は長い足を持て余すようにして非常階段の出入り口に近付き、立ち止まる。
帽子を被った男を見下ろした。
「思い知らせてやろう、賀来。俺たちの十六年を」
言いながら指先で帽子のつばを跳ね上げると、賀来は突然のことに、ひどく眩しそうに目を瞬かせた。ずいぶんと長く寝ていたせいでまだ目が陽光に慣れないらしい。結城はその目を手のひらで覆ってやり、腕を伸ばして重い非常用のドアを閉めた。
うす暗い闇。
結城は腕を下ろしてしばらく、闇を見つめた。
MWを手に入れた。
世界の運命はこの手中にある。
愚かな行いのツケを払うのは、国家ではなくその国民たち。世界の人間たちだ。いつ殺されるのかと怯えながら、それでも普段と変わらない日常を過ごす人間たちを思うと、結城は自然と浮かぶ笑みを抑えられなかった。
思い知れ。
俺たちの十六年を。
「行くぞ」
歩き出そうとした腕を取られた。
立ち止まったままの賀来が掴んでいる。
腕をきつく握り締められて、結城は眉をしかめた。
「どうした」
「結城」
足もとを見ていた賀来が、顔を上げる。
真っ直ぐに結城を見た。
「俺たちが死ぬ時は、一緒だよな?」
見上げてくる賀来の目を見つめて、結城はやんわりと、微笑んだ。
――この目、だ。
いつだったか、首を絞めた時、賀来が向けてきた眼差し。目。ただ自分だけを映すこの目が、見たかった。欲しかった。
いつものど元を締め上げている乾きが、この時だけ、やわらぐ。
「当たり前だろ」
賀来の手を掴んで引き寄せ、目もとに指先で触れた。
「死ぬ時は一緒だ」
軽く目を見開いて、賀来はしばらく結城を見つめたまま視線を揺らしていたが、やがて目を伏せた。それからほんのかすかに、微笑む。掠めるような笑みは一瞬で消えたが、結城は確かに見た。
墜ちてきた。
縋っていた神を捨てて、俺のもとへ。
「賀来、お前は俺がいればいいんだろう……?」
追い詰めるように囁くと、賀来はわずかに肩を震わせたが、ためらいながらもゆっくりとあごを引いた。
もう彼の首に十字架は掛かっていない。
結城は目もとに触れていた手を彼の髪の中に滑らせ、梳いた。
「行くぞ」
階段を下りながら、結城は振り返らなかった。
確かに残りの命は少ない。
だが、結城にはすべてが残った。
MWも。
そして、賀来も。
後ろから着実に賀来の足音が追いかけてくる。
肩にMWの容器が入ったバッグを背負いながら、結城は真っ直ぐに前を見つめた。
新たな復讐は、始まったばかりだ。
作品名:【 「 MW 」 】 作家名:池浦.a.w