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【 「 MW 」 】

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 神の子が、十字架にかけられている。
 賀来は聖壇の前に立って、壁に掲げられているキリスト像を見つめていた。
 夜明けの冷気がうっすらと教会内に漂っている。どのような時も静謐で、知らずに声をひそめさせる神の家は今日の始まりも、これまで繰り返されてきた日々と何も変わっていないようだった。
「……わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ」
 聖書の一節を小声で囁き、ゆっくりと手の平を拳に作りかえて、賀来はうつむいた。
 神こそ、生きる糧だった。
 十六年前の地獄を忘れるために、あの地獄を背負うために、あの地獄から逃れるために神の御心を信じ、神の慈愛を語って迷える子羊を導き、これまで生きてきた。
 それが賀来裕太郎の十六年だった。
「……神父さま?」
 後ろからそっと遠慮がちに声を掛けられて、賀来はかすかに肩を震わせ、ゆっくりと声の方に身体を向けた。
 礼拝堂の入り口に、制服の上にエプロンを着けた美香がいた。少女はただならぬ賀来の様子に眉を曇らせて声をひそめる。
「どうしたんですか? ……とても疲れているみたいですけど」
 やんわりと笑みを取り繕い、賀来は軽くかぶりを振った。
「いや、大丈夫だよ。昨日はいきなり出掛けて本当に悪かったね。みんな、どうだった?」
「……神父さま、あの」
 言葉に詰まった美香はしばらく賀来の様子を見つめていたが、やがてにっこりと微笑み、大丈夫でしたよ、と明るい声で答えた。
「実は昨日、急に桜ちゃんと穂のみちゃんの誕生日会をやったんですよ。本当は来週でしたよね? でも穂のみちゃんのお父さんが急に出張になっちゃって。神父さまも参加できたらよかったですね」
 穂のみ、とは、近所に住む七歳の女の子で、施設の子供達ととても仲が良くて、いつも一緒に誕生日会を開いていた。賀来が参加できなくて残念だったよと微笑めば、美香は嬉しそうに続けた。
「しかも斉藤さんがみんなにって、ものすごい大きなケーキを作ってきてくれたんです。神父さまの分は冷蔵庫に入ってますから、あとで食べて下さいね。みんなに分けちゃダメですよ」
「いや、あれは……」
 思わず言い訳を口に仕掛けて、賀来はちょっと苦笑した。
「今回はちゃんと食べるよ。美香ちゃんの手はわずらわせない」
「いいえ、わずらわせてくれるのは、いいんです。神父さまに食べて欲しいんです」
 それから、子供にせがまれると断れない賀来が自分で食べるときちんと約束するまで、美香は明るい声で喋り続けた。やがて彼女は腕時計を見ながら慌てて出て行きかけて、足を止める。ドアに手を掛けながら始めて不安そうな顔になった。
「そういえば、結城さん、大丈夫だったんですか?」
 あの電話があった時、彼の名前を口走ったんだろうか。
 胸の裡がひやりと冷えたが、賀来は軽くうなずき、美香を真っ直ぐに見た。
「あぁ、大丈夫だったよ。ありがとう」
「また遊びに来てくださいって、伝えてくださいね」
 それじゃ行ってきます、と美香はにっこりと笑い、軽やかに礼拝堂から出て行った。最後まで静かに微笑んでいた賀来は、足音が遠ざかっていくのを聞きながら顔をしかめて、聖壇に顔を向けた。
 彼女は知らない。
 だが神は知っている。
 この手が、人を殺めたことを。



 思えば、あのひやりとしたナイフを手にした時、賀来は自分が何をしたいのかよくわかっていなかった。
 眠る結城の側に立ち、振りかぶって始めて、彼を刺そうとしているのだと――復讐の狂気に取り憑かれた彼を殺そうとしているのだと、気がついた。
 その後に襲ってきたのは耐え難い苦痛だった。
 忘れもしない。
 十六年前のあの夜、自らの危険も顧みず、賀来を助けてくれたのは結城だった。それ以後、悪夢にうなされて眠ることすら出来なかった賀来を、彼はずっと何も言わずに助け続けてくれた。
 裏切られたと思った時もあった。
 彼を思い出すのが辛い時もあった。
 だが、彼と再会した時、賀来は本当に心の底から嬉しかった。
 彼が狂気に取り憑かれていると知った時、賀来はひとりの神父として彼を救おうとした。結城に裏切られたあと、学園の礼拝堂で気付かされた真実の通り、彼の魂を救わなければならないと思った。
 しかし、神父である賀来に出来たことは、結城が時にあざ笑う「説教」をすることだけだった。
 荒川沿いで発見された荒木。
 タイで殺された岡崎父娘。
 賀来が知るだけでも、数多くの人間が、彼の手に掛かっていた。
 容赦なく人を殺めていく結城を見つめながら賀来はいつも震えていた。
 彼を助けたいとこんなにも強く想うのに、何一つ出来ない自らが歯がゆかった。悪夢を見続けながら、悪夢のような現実に攻め立てられながら、賀来は彼の魂のために祈り続けてきた。
 ――ぎらつくナイフ越しに、眠る結城を見つめる。
 端正な顔。
 やせ細ってしまった身体。
 彼を殺し、自らも命を絶てばすべてが――、終わる。
 震える手でナイフを握り締め、賀来はきつく奥歯を噛んだ。
 彼を殺せば、もう誰も彼の手に掛かって死ぬことはないだろう。彼を殺せば、彼自身の深い闇から解き放つことが出来るだろう。彼を殺せば、もうこれ以上、俺自身も苦しまなくてすむ……。
 だが、長い逡巡の末、賀来はナイフを持つ手を、降ろした。
 聖職者として人を殺めることなど出来ない。俺には人を殺すことなど出来ない。神の道を選んだ者として命を絶つことは禁じられている。
 その気になれば理由などいくらでも並べられたが、彼を想う狂おしいほどのこの想いがすべてなのだと、賀来はわかっていた。
 結城。
 俺は、お前が生きていれば、それでいい。
 お前が少しでも長く生きていてくれればそれでいい……。
 握りしめたナイフを電話機の横に置いた。
 その時、胸の裡にひやりと差し込む何かに、賀来はひっそりと怯えながら、橘という刑事と話をした。結城の魂を神父として救うことはかなわなかった。それを悔いているのだろうとぼんやり思いながら、眠る結城を置いて、外に出た。
 俺には止められない。
 だが、警察ならば、彼を止めてくれる。
 復讐の動機――十六年前の地獄の夜も、いずれ明らかになるだろう。
 もしかしたら結城の身体を治す方法が見つかるかも知れない。
 賀来はそんなことを考えながら、時々立ち止まって空を仰ぎながら、刑事と約束した公園に向かった。
 これは裏切りだろうか?
 違う、と心が答えた。
 結城を助けたい。
 彼の魂を救えないのならば、せめて、彼には長く生きて欲しかった。
 あの身体からぬくもりが消え去る時が来るなんて、考えたくなかった。
 ――裏切り者。
 賀来の必死の思いは血の凶行で断ち切られた。
 耳もとであざ笑う声を聞きながら、賀来は血にまみれ、消えゆく命の前で泣くことしかできなかった。
 大丈夫、お前が手伝ってくれたら、もう人は殺さないと囁く声を聞きながら、賀来は胸を締め上げる痛みに苦しんだ。
 なあ、結城。
 お前にとって、俺は、何なんだろう……?

          2

 背後でドアの閉まる音が聞こえて、賀来は我に返った。
 結城の足音が近付いてくる。
作品名:【 「 MW 」 】 作家名:池浦.a.w