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【 「 MW 」 】

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 大量の血を浴びた身体は長時間に及んだ殺人の隠蔽作業で疲れ切っていた。時折、思い出すように襲ってくる震えがまたぶり返して、賀来は自分の肩を掴んだ。
「賀来」
 冷ややかな声に身が竦む。
 賀来はきつく目を閉じてから、意を決して振り返った。
「……結城」
 結城は真後ろにいた。
 逃げる間もなく、腹部を蹴り上げられる。
 後頭部と背中を壁に打ち付けた。
 一拍置いて襲ってきた激痛と吐き気に、賀来は咳き込みながら身を丸めた。
「なあ、神父さん」
 結城のいやに明るい声が頭上から降り注ぐ。
「まさかあんなに見事に裏切ってくれるとは思わなかったよ、説教好きの神父さん。どうだった? 意外と手間が掛かるもんだろう、殺人ってのは」
 覗き込んでくる結城は上機嫌を装っていたが、目は笑っていなかった。
 冷たい眼差しに喉が塞がる。
 結城はますます愉快そうに目を細めた。
「なあ、何か言ったらどうだ、賀来。神とともにあった言葉で人を騙すのが神父だろ? それとも地獄に堕ちちまった俺には何を言っても無駄だっていうのか」
「ち、がう……」
 賀来は必死になってかぶりを振った。何かを言わなければならないのに、口がうまく動かない。結城の服を掴み、のどの奥からどうにか言葉を押し出した。
「か、勘違い、するな」
「勘違い?」
 わずかに目を眇めて、結城が口端を歪める。
 賀来はきつく奥歯を噛んであごの震えを止めた。
「お、お前を、裏切る気は、なかった。あ、あんなことは、止めて欲しくて――」
「そうか」
 いきなり突き飛ばされて、賀来は壁に肩と背中を打ち付けた。痛みを堪えながら賀来は手を伸ばし、また結城の服を掴んだ。
「お、お前だってわかっているんだろう? 復讐したってあの夜に死んだ島の人たちが戻ってくるわけじゃない! あの悲劇がなくなるわけじゃないんだ! もう復讐なんて止めて――」
「それでアイツらを野放しにするのか? 俺たちの十六年はどうなる! ただ忘れろと言うのか!?」
「俺は復讐なんて望んでない! これ以上、人を殺しても――」
「始めに殺したのはアイツらだ。忘れたのか。俺たちも殺されかけたんだぞ!」
「結城!」
 賀来は名を叫ぶことしかできなかった。
 言葉にならないこの想いが、もどかしかった。こんなにも彼を救いたいと思うのに、何一つ、自分の思いや言葉は彼に届かない。何度も繰り返してきた会話にまた新たな想いを重ねて、賀来は右手を握り締めた。
 一本のナイフ。
 振り下ろせなかった手。
 あの時、ナイフを突き立てていれば、結城を救えたんだろうか……?
「賀来」
 不意に低い声で名を呼ばれて、賀来はまた震えた。結城の手が赤黒く変色したシャツを掴む。勢いよく引き寄せられ、真っ正面から視線がぶつかった。
「いいか、もう二度と、俺を裏切るな」
 冷ややかな声が命じる。
「たとえ少しでも俺を裏切る素振りを見せたら、お前の近くにいる人間を一人ずつ、殺してやる」
 その言葉の意味を理解するまで、一瞬の間が、あった。
 賀来は大きく目を見開く。
「な、んで――」
「それともまた自分の手で殺したいか? 最初に誰が犠牲になるか、もちろんわかってるだろ?」
 脳裏にやわらかな笑みを浮かべた美香の顔がひらめき、消えていった。
 重なる橘刑事の壮絶な最期に声が出ない。
 真っ青になった賀来を見つめ、結城はシャツを掴んでいた手を離した。
「いいか、忘れるなよ、賀来」
「……あの子は関係ないだろ?」
 震える声を無視して、結城が黙ってきびすを返す。
 賀来は慌てて立ち上がった。
「待ってくれ! どうしてお前は――」
 そんなに俺を縛るんだ、と叫ぼうとした。
 だがその前に無表情の結城が振り返ってあらぬ方を示す。
「早くシャワーを浴びろ」
「結城!」
 賀来は思わず目の前にあった腕を掴んだ。足を止め、ゆっくりと振り返った結城の目が冷徹な色を帯びる。思わず身体が強張った瞬間、胸ぐらを掴まれ、ぶつかるように唇が重なった。
「!ッ」
 いきなり口の中に濃厚な血の味が広がった。生理的な吐き気がこみ上げ、身を引きつらせた賀来は結城から離れようと藻掻いた。それを許すまいとする手が髪を鷲掴みにする。
 最後に強く下唇を噛んで、結城は賀来を解放した。
「俺を見ろ、賀来」
 よく通る声が促す。
 思わず閉じていた目を、賀来は恐る恐る、開いた。
 結城の端正な顔が間近にあった。
 何かを推し量るような視線にしばらく見つめられて、賀来は息を止めた。なぜか結城の目には狂気も何もなかった。
 やがて、ゆっくりと視線が外される。
「シャワールームはそこだ。さっさと行け」
 血に濡れた唇を無造作に拭って、廊下にあるドアを示し、結城は今度こそ部屋から出て行った。
 その背中を座り込んだまま見送って、賀来は口を押さえた。ひどく鉄臭い。そこでようやく、賀来はそれが橘の血であることに気が付いた。胃が引きつる。激しく咳き込みながら立ち上がった。
 そこは賀来の知らないマンションの一室だった。いつも結城と会うあのマンションに比べて狭いが、同じように素っ気なく、生活感がない。
 狭い洗面所で口をすすぎ、賀来は何も考えられないままのろのろと服を脱ぎ捨て、冷え切った浴室に入った。室内に立ちこめた生臭い匂いはカランを捻るとたちまち消えていく。
 冷たい壁に手を付いて身体を支えた。
 今だけは何も、考えたくなかった。
 ぼんやりとした目で排水溝に流れ込む赤い水を見つめる。
 ――何か、齟齬を来しているような違和感が込み上がってきたのは、水の色がほぼ透明になってきた頃だった。
 賀来は流れる水を見つめながらゆっくりと目を見開いた。
 胸の奥で崩れていくものがある。
 次に襲ってきたのは、軽いパニックだった。
「……そ、んな」
 手が震えて身体を支えられない。
「違う、違う……」
 つぶやきが漏れ、だがその意味すらわからなかった。
 なぜ混乱しているのかもわからないまま、賀来は立っていることも出来なくなり、ひざをついた。その姿勢が、賀来の混乱を位置づけた。
「――!っ」
 恐らく、その瞬間、賀来は絶叫した。
 魂の奥底で叫んだ。
 声なき声を上げ、頭を抱える。
 どうして、と声をあげることも、狭い浴室で感情を向けられるものもなく、賀来は崩れ落ちるようにしてその場に座り込んだ。
 手がけた命のことも、結城の言葉も頭から掻き消えていた。
 仰ぐ空もなく、頼る者も居ない。
 その最中で、賀来は自らが神を裏切ったことを、悟った。



 冷蔵庫から取りだしたケーキはずいぶんと大きかった。たぶん何でも独りでやりたがるミオが切ったのだろう。形はひしゃげていたし、剥がれて慌ててくっつけた生クリームが皿にこびり付いている。
 かすかな笑みを浮かべて、賀来は皿に乗せてあったフォークを手にとり、ケーキの端をすくい取った。美香に言ったことはないが、こういった甘いものは苦手だった。ゆっくり口に入れると少し脂っこい甘さが広がる。
 二口目を口に運ぼうとして、手が止まった。
 やはり、甘すぎる。
作品名:【 「 MW 」 】 作家名:池浦.a.w