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【 「 MW 」 】

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 賀来は少し考えてから、ケーキを子供たちが書き損じた半紙に包み、ゴミ箱に捨てた。以前の賀来なら無理にでもすべてを食べたかも知れないが、この世の何もかもが、昨日とは違っていた。
 皿とフォークを洗う。
 その足でまた、礼拝堂に戻った。
 聖壇の前に立って神の子を見上げる。
 まだ夜も明けていない夜明けに、結城に教会の前に置き去られてからずっと、賀来はこの像を見つめていた。
 ――もう、この魂は神を頼ることはないだろう。
 神の後ろ盾もなく、あの地獄の夜の悪夢に苦しみながら、結城の罪をともに背負いながら、生きていくしかない。
 結城が棄教した時は何よりもそれを畏れた。
 だが今の賀来は、不思議な静けさとともにそれを受け入れていた。
 昨晩、シャワーを浴びながら――冷水だと気付いたのはずいぶん経ってからだったが――神を裏切ったのだと悟った時は、その重すぎる事実に震えるしかなかったが、やがて、気付いた。
 祈り続けても結城を救わなかった神を見限ったのではなかった。神が結城を救うまで待てなかったのだ。神の手ではなく、自分の手で決着をつけようとした。それが神を裏切ることだと気が付けなかったのだ、と。
「――……」
 聖壇の前で、賀来は胸の十字架を握り締めた。
 復讐すら望まず、生きる道を求めて神に縋った賀来を、なぜか結城は切り捨てなかった。それどころか恐ろしい罠を仕掛けてまで縛りつけた。その行動が単なる執着であるのか、別の感情なのかはよくわからなかったが、それによく似た想いが賀来の中にあることも確かだ。
 彼を想う狂おしい想い。
 結城が人の道を踏み外していると知りながら、ずっと、神に祈ることで救いを求め続けてきた。万人に門戸を開く神父でありながら彼のためだけに祈り続けてきた。神を裏切ったがために、やみくもに警察に救いを求めるまで、彼の行為を黙認し続けたのは――時に手伝ったのは、その想い故だった。
 賀来はかすかに震えながら受け入れる。
 神に祈る時は、終わったのだ。
 ただ祈り、神の袂にひざまずくだけでは、ふたりとも救われない。
 結城が縛り付けてまで自分を求めるなら、それを受け入れて、この身ひとつで、神父としてではなく賀来裕太郎として、結城美智雄に向き合うしかなかった。
 ――結城と、あの地獄に、真正面から向き合う。
 途端に足もとから込み上がってきたのは底知れぬ恐怖だったが、賀来は目を閉じて、それをやり過ごした。
 結城、と胸の裡で名前を囁いて、賀来は十字架から手を離す。
 真っ直ぐにキリスト像を見上げた。
 お前が俺を縛るなら、どこまでもお前とともにいこう。
 ともに堕ちるなら地獄も悪くない。

          3

「あなたたちのことは必ず守るわ。だから信じて。かならず、守るから」
 牧野京子と名乗った女性記者は何度もそう繰り返して、帰って行った。
 賀来は彼女を礼拝堂の外まで送っていき、明日の時間をもう一度確認してから別れ、司祭館の一室がある方を見た。
 話し合ったのは司祭館の応接間だった。
 結城がどんなに迫っても、牧野京子は情報源を明かすことなく、それどころか情報については確認を取ってから明日話すと、約束しただけだった。
 賀来は、話し合いの最中、結城がまたナイフを取り出したらいつでも割って入れるように、ずっと注意を払っていた。幸いなことにそんなことにはならなかったが、気詰まりする時間であったことは間違いない。
 明日、沖之真船島へ三人で向かうことになり、その用意について記者が手配すると言ったのを断って、結城はすべて自分が準備すると言い張った。今、その結城は携帯電話でどこかと連絡を取り続けている。
 MWの保管場所。
 沖之真船島。
 明日、あの日以来始めて島に帰るのだと気付いて、賀来は目を閉じながらゆっくりと息を吸い込んだ。かすかに足が震える。懐かしいと同時に、すべてが悪夢と結びつく、あの島。
 震えを振り払って、二階に上がった。
 ノックをして電話のある応接間に入った。
「彼女は帰ったよ」
 そう言ってから、立ったままの結城が携帯電話で話していることに気付いて、賀来は口を閉じた。入り口で待っていると、やがて振り返った結城が無造作に言った。
「賀来、今日はここに泊まらせろ」
「……ここに?」
「あぁ」
 素っ気なくうなずいて、結城はまた、背中を向ける。賀来はしばらくその背中を見つめてから、隣にある自室に入った。
 人手が足りないため、まだこの教会に助祭は居なかった。前の司祭であった織田神父の部屋に泊まってもらうかとも考えたが、掃除もしていない部屋に彼を泊めるのは気が咎めた。それに布団を養護施設から運ばなければならない。
 自室の中を眺め回し、とりあえず枕のカバーだけは変えて、応接間に戻った。
「結城、俺の部屋を使ってくれ」
 ちょうど、結城は携帯電話をポケットに入れるところだった。付いてくるように促して隣室のドアを開ける。
 さすがに自室に結城を入れたのは初めてだった。
 入り口に立った賀来を追い越し、中に入った結城はへぇ、とつぶやきながら室内を眺めた。壁際にベッドがひとつ、あとは本棚に並べられた本だけが、目立っている。
「慎ましい部屋だな。何もない」
「ベッドは好きに使ってくれ。枕カバーは変えた。新しいシーツならベッドの下のかごに入ってるから」
 言いながら結城に背を向けて、賀来は傍らの収納棚から冬用の毛布を引っ張り出した。応接間のソファで寝るつもりだった。無理なら床でもいい。眠れる気はしなかったが、明日のことを考えると、無理にでも寝るべきだとわかっていた。
 ポケットから鍵を引っ張り出して机の上に置いた。
「礼拝堂の裏口の鍵だ、出掛けるようなら使うといい」
 他にも、明日の朝必要になりそうなものを腕に抱えて、賀来は後ろを振り返った。
 途端に心臓が跳ねる。
 結城が二冊の聖書を手に持ち、見比べていた。
 片方はぼろぼろで何度も修繕した跡があり、もう一冊は真新しく見えるが、単に使っていないだけだった。――村越神父から送られた、聖書。一冊は賀来のものであり、もう一冊は棄教した結城が賀来の元に置いていったものだった。
「まだ持ってたのか。これ」
「……聖書なんだ。捨てるわけにいかないだろ」
 結城の手から取り上げ、ラテン語や英語の書籍が無造作に押し込まれている本棚に入れた。それから机の上に広げてあった、書きかけの手紙も引き出しに入れる。賀来は短いため息を漏らしながら振り返った。
「明日、あの島に行くんだな」
「当たり前だろ」
 短く言い捨てて、結城はまた賀来に背中を向けた。
 賀来は顔を上げてその背を見つめた。
 時折、結城はそうやって何かを見つめている時がある。彼が何を見つめているのか、賀来にはわからなかった。時に夜景を、時に聖壇を見ていた背中に悲しげな目を向け、賀来はドアノブに手を掛けた。
「なあ、結城」
「なんだ」
 お前にとって、この十六年は何だったんだ?
 口を開く瞬間まで、賀来はそう訊ねるつもりでいたし、その答えを知りたいと思っていた。だがいざ口からこぼれ出たのは、まったく違う問い掛けだった。
「なあ結城、お前にとって、俺は何なんだろう?」
「――――」
作品名:【 「 MW 」 】 作家名:池浦.a.w